オウム疑惑と宗教法(平成7年)
平成7年(会報59‐1)
京都仏教会「宗教と政治検討委員会」委員
駒沢大学教授 宗教学 洗 建
一 宗教と権力
オウムがマスコミを占拠して数カ月が経過した。宗教団体が毒ガス兵器を製造し、これを散布し、無差別大量殺人を犯したのではないかという、前代未開の疑惑がもたれているのだから無理もない。多くの評論家が、マスコミに登場し、「このような反社会的団体は、宗教ではなくカルトである、革命集団である、政治団体である、犯罪集団である、軍事集団である、人の精神を救う宗教とは到底認めがたい」等々の解説がなされ、「裁判を待って宗教法人の解散をするような手ぬるいことではなく、内乱罪を適用すべきだ、破防法の適用が必要である」などとも云われている。
こうした怒りの声はもっともなことだと思う一方で、はたして宗教と政治、宗教と軍事ということが、それほど明確に区別できるのだろうかという疑問の思いもわいてくる。そもそもカルトとは、チャーチ、セクト、デノミネーションと並ぶ宗教集団の一類型の名称であるのに、宗教ではないカルトとはいったい何を指しているのだろうかと戸惑ってしまう。宗教の歴史を振り返ってみれば、宗教が政治権力と切り放されたのは、たかだか二〇〇年ほど前のことであり、日本ではほんの五〇年の歴史しか持っていないのではないか。宗教団体が軍事力を蓄えることも、それほど稀なことではない。日本でも比叡山一万の僧兵は、並の大名をしのぐ勢力であったことを、皆忘れてしまったのであろうか。
確かに宗教は、人間の魂を救い、人間の幸せを願うものである。それ故にまた、しばしば人間が救われた理想の状態を思い描くことも多い。それは神仏の働きによって実現されることを説くことが多いのであるが、時として政治的プログラムをたて、現実社会にこれを実現しょうとする場合もある。宗教と政治はまったく異なった領域を持ち、異質のものであるかのように思うのは、まさに近代の思考なのであって、素朴で粗野な宗教は、むしろ政治性を帯びやすく、
権力を指向しやすい存在なのであることを忘れるべきではなかろう。
オウムも最初は権力に接近しようとして選挙に出馬した。客観的に見れば当選できる可能性はゼロであるにもかかわらず、これが可能であると信じたということは、まさにオウムが宗教であったからと考えるほかに理解のしようがない。権力に接近することに失敗したので、彼らは自ら権力を構築することを試みて、軍事力を蓄えた(国の中に国家を建てた事例としては、太平天国の先例がある)。しかし、これも客観的に見れば、到底国家に対抗できるようなものではなく、これを政治的草命集団として理解しょうとすれば、あまりに幼稚な作戦で間抜けな革命家の集団としかいえないだろう。やはり、オウムは宗教なのである。鬼っ子ではあるけれど。
二 宗教法人法を改正すべき?
オウムのサリンは恐い。宗教団体が、国家の中に独自の権力を構築することを放置しておいて良いはずがない。しかし、宗教団体が既存の世俗権力を握って、これを左右することになることはもっと恐い。政教分離が重要である所以である。
しかし、オウム事件を契機に、事態はまったく逆方向に進みそうな気配にある。「現行の宗教法人法は甘い、これを改正して、このような似非宗教を閉め出せ、宗教団体にも課税しろ」などの世論が一気に沸騰している。国会議論においても「全国展開をしている宗教法人の活動について、所轄庁がまったくその実態を把握できないようなことでよいのか」との質騒が出て、政府も宗教法人の活動報告義務を強化する、全国展開する宗教団体の所轄庁を都道府県知事から、文部大臣に移行するなどの法人法改正を検討し始めた模様である。
しかし、これは考え方の根本を誤っているものといわざるを得ない。所轄庁がその所轄する法人の実態を把握しておくべきだという考え方は、宗教団体が悪いことをしないように、所轄庁が眼を行き届かせておくべきだという思想に立脚するものであって、信教の自由、政教分離の精神を理解しないものである。所轄庁はその所轄する法人の実態をまったく把握していなくても、差し支えないのである。
このことは、問題を個人に置き換えて考えてみればその本質がよく分かるはずである。個人は自分の資産状況や勤務、余暇活動等について、役所に届け出の義務など負ってはいない。まったく自由に、しかし、自らの責任において行動している。これを野放し状態であるというベきだろうか。まったく自由である代わりに、その行為の責任は問われるのであって、もし、法令に違反し、犯罪を犯すならば、法に基づいて処罰されることになる。そのことによって、社会の秩序が維持されているのであり、これが自由社会、民主社会の大原則なのである。宗教法人に対する考え方も、まったく同じ考え方に立って問題を処理するのでなければならない。
所轄庁に活動報告をさせるという考え方は、悪いことをしないようにその活動を事前にチェックするという思想であり、これは単に行動を規制するに止まらず、その思想、信条への干渉を招くことが必然である。もちろん、現在の所轄官庁が、宗教や国民の思想統制をめざしているわけではないであろう。しかし、宗教法人が世間の批判を浴びたり、反対者の陳情があったり、法人の内部紛争があったりした場合には、所轄庁にその権限があれば、宗教法人を世間の批判から守ろうという、全くの‥善意に基づいてさまざまの指導が行われることに間違いはなく、それが結果的に内心の信仰に干渉することになることも避けがたいのである。このようなことを許す法改正は絶対に避けなければならない。
三 オウム事件に学ぶこと
今回のオウム事件の教訓は、宗教法人法の不備ということではなく、具体的な犯罪の容疑がある場合には、警察、課税庁など強制権を持つ官庁は、毅然とした対処をする必要があったということである。もちろん、サリンの製造など、誰にも予想できない事態であったので、今回の警察の対応を批判するのは酷である。戦前の反省に立ち、信教の自由への配慮から、むやみに強権を発動することを控えてきたこれまでの警察の態度は、むしろ評価すべきものである。しかし、単に反対者の嫌がらせや中傷、誹謗の類でなく、具体的な犯罪の容疑がもたれる場合には、宗教団体に対してもこれを見逃しておいてはならないということである。
オウムに関しては、脱走信者などから、拉致、監禁、薬物注射など、具体的な犯罪の訴えが相次いでいたのであり、また、税制の面でも、上九の施設が「宗教法人がもっぱらその本来の用に供する宗教法人法第三条に定義する境内地、境内建物」として使用されていないことは、立ち入り調査するまでもなく合理的な疑いを持ち得たのであり、これらを見逃さず、適正な事情聴取、立ち入り調査などを行っていれば現行法のままでも、これほどに犯罪を肥大化させずに済んだものと思われる。
その他、正体を隠しての勧誘や霊感商法など巧みな心理操作に基づく問題活動があるが、これも宗教団体に法人格を付与することと混同すべきではなく、刑法等の問題として処理すべきであろう。