会報67-1 (平成11年)
自自公連立と政教分離
京都仏教会「宗教と政治検討委員会」委員
駒沢大学教授 宗教学 洗建

一、政教分離

 自白公連立政権づくりの協議が始められる中、特定の宗教を背景とする公明党が政権に参加するのは、憲法の定める政教分離原則に反するのではないかという議論が再燃している。そのような批判を展開したのは野党時代の自民党であり、その舌の根も乾かない内に同じ自民党が公明党に政権参加を呼びかけるというのだから、その無節操ぶり・ご都合主義には呆れるほかはなく、国民の政治不信が増大するのも無理はない。

 混乱を生じているのはそればかりではない。憲法は宗教政党が政権に参加することを本当に禁止しているのか、そもそも政教分離とは何と何を分離するのか、そのあたりの国民の理解もきわめて混乱しているのが現状であろう。政教分離とは、読んで文字通り政治と宗教を分離するのであるから、政治と宗教との間には相互に乗り越えてはならない一線があり、政治は宗教に介入してはならず、宗教も政治に介入してはならないという原則だというような説明が、俗耳に入りやすい常識的説明としてまかり通っている。このような理解の仕方を生み出しているのは、政教分離という用語にも原因があるのだろう。アメリカではこの原則を、Separation of Church andStates つまり、教会と国家の分離と呼んでおり、フランスではライシテの原理、つまり国家の世俗性の原理と呼んでいる。すなわち、宗教(あるいは宗教団体)と分離しなければならない対象は、広く抽象的な政治活動一般ではなく、具体的に組織された権力機構としての国家なのである。

 日本国憲法の条文上で禁止されている事項も、国家による宗教団体への「特権賦与」、宗教団体による「政治上の権力行使」(以上二〇条一項)、国家機関の「宗教活動」(二〇条三項)、宗教団体の使用、便益、維持のための「公金の支出」(八九条)であって、いずれも権力機構との関係が問題とされているのであり、政治活動一般が問題とされているわけではない。最高裁も政教分離の原則とは「国家の宗教的中立性の原則、ないし国家の非宗教性の原則である」(津地鋲祭判決)と述べており、宗教団体の政治活動には言及していない。まず、政教分離とは国家と宗教の分離なのであり、決して政治と宗教の分離ではないことを心に留めておかなければならない。


 二、政治上の権力行使


 憲法条文の内「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」という規定だけは宗教団体の政治活動を禁止し、または制限している条文のようにも見える。そこで「政治上の権力」とは「政治的影響力」のことであり、その行使が禁止されているとする説がある。しかし、このような解釈は政教分離制度の根本目的である信教の自由の保障(津地鋲祭最高裁判決)を脅かすことになるので適切ではない。つまり、当事者にとっては信仰上の要請に基づく宗教的活動そのものであるが、それが同時に政治性を帯びているというケースとはいくらでもある。

 たとえば、靖国神社の国家護持を推進する運動も、これに反対する運動も、当事者にとっては信仰上止むに止まれぬ宗教的活動である。また、政治的、社会的な抑圧に苦しむ人々の側に立ってその解放のために活動する解放の神学も、当事者には宗教的活動そのものである。これらの活動が「政治的影響力の行使」に当たるとして禁止されることになれば、信教の自由が侵されるばかりではなく、時の政権に都合の悪い宗教活動を弾圧するための根拠に用いられかねないのである。

 政治上の権力とは、国家の統治権力、すなわち立法権、行政権、司法権のことに他ならず、宗教団体がこれらの権力を行使することが禁じられていると解するのが、従来の政府解釈であり、憲法学上の多数説でもある。もちろん、これらの権力は国家が宗教団体にその行使を委託しなければ宗教団体が勝手に行使できるものではない。したがってこの条項も、宗教団体に対する禁止規定ではなく、国家に対する禁止規定なのである。つまり「国はいかなる宗教団体に対しても、政治上の権力を行使させてはならない」ということなのである。そのようなことは現実には起こり得ないから、そのような規定をおくことは無意味であるとする批判がある。しかし、スエーデンなどの国教国では住民登録などの行政事務を国教会に行わせている事例があるし、わが国でも徳川時代の宗門人別帳はこれに当たり、明治初期には代わりに全国の神社に氏子調べを行わせようとしたこともあるのであって、このようなことの無いように禁止規定をおくことは決して無意味ではない。さらに、「財産上の紛争の前提に宗教上の争いがある場合、宗教上の紛争は法律上の争訟に当たらないとして審査することなく却下するならば、争いのある財産の帰属の決定権を宗教団体に行わせる(司法権の行使)結果となり憲法に違反する」とした判例(東京高裁)もある。この判例は現在の日本においても、場合によっては宗教団体に権力を行使させるケースがあり得ることを示している。


 三、宗教政党の政権参加


 したがって、宗教団体が選挙活動その他の政治的活動を行うことは違憲ではない。政党は国家機関ではないから、宗教団体が政治団体や政党を結成することも違憲ではない。さらに政権与党も内閣とは異なり国家機関ではないから、これに宗教政党が加っても、国家機関に接近はするが、それ自体は違憲ではない。宗教政党が単独過半数を制すれば、総理大臣および閣僚はすべて宗教政党から選出されることになるかも知れないが、閣僚が個人的に宗教を持っていても不思議なことではなく、これも違憲にはならない。ただし、内閣または閣僚がその支持母体である宗教団体に特権を付与したり、便宜を与えたり、閣僚の立場で宗教的活動を行ったりすれば違憲になる。宗教政党が政権参加をすれば、その危険が増大するのではないかと危惧する国民が多いのは事実であろう。それだけに、公明党が政権に参加し、閣僚を出すならば、その閣僚の行為は厳しく問われることになる。しかし、実際には閣僚の地位において(閣僚の職務として)靖国神社に参拝する(公式参拝)ことが試みられたり、普段は参拝したこともないのに閣僚になったらその期間だけ(閣僚としての地位において)伊勢神宮に参拝するなどの違憲行為はすでに行われているのである。自自公達立政権樹立に際しては、これらも合わせて政府の行為を厳しく問う必要があろう。

 また、政党の連立に妥協が必要であることは当然であるとしても、政権に参加する公明党は何を目的としているのか、その政策選択の責任がより一層問われることになる。公明党はガイドライン法の成立以来、盗聴法、総背番号法、日の丸・君が代法の成立に、ほとんど論議を深めることもなく手を貸して政権入りを目指したが、宗教法人法改正に反対した立場と一貫性を欠くのではないか。宗教を国家の管理下に置くことは、そのことだけに止まらないことを今回の流れもまた証明しているのであって、これらの諸法律が国民の権利を制限し、管理国家の体制作りの性格を持っていることは明かである。おそらくこのあとに続くのは、有事法制の整備、憲法改正(天皇制強化を含む)、靖国神社国営化、そして徴兵制復活への流れであろう。このような流れに公明党はどのような役割を果たそうとしているのか。その政策選択の責任をこそ問わなければならない。

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