会報61 (平成8年)
政権党と宗教法人問題
学習院大学名誉教授
聖学院大学大学院教授 飯坂良明

 明治維新以来、この国の政府ないし権力の座にある人々が、宗教というものをどのように取り扱ってきたかという歴史を顧みると、宗教の崇高性、宗教教団の自立性、信教の自由といった事柄に対しての認識が欠如しており、宗教を政治目的のために規制し、利用し、操作することが当然であるかのような体質を事々に露呈してきたように見受けられる。近代国家の発展過程においては、信教の自由や、政治と宗教の関係を規定する立憲主義の発達が見られ、例えばイギリスのように、たとえ法制上は国家の生み出したものとされる国教会であっても、その本質は国家の被造物ではないと、命を掛けて教会の自立性と信教の自由を護るという闘いが繰り広げられてきた歴史から国家も教会も共に教訓を学んだ故に、政府や国家権力の担当者が宗教を尊重し、恣意的に宗教を取り扱ってはならないという自己抑制的態度を保持するといった風潮は残念ながらわが国には見られない。

 明治以前は、キリシタン、邪宗門に対する禁教と弾圧は続けられたし、維新前後からは徳川幕府の正統性に代わる天皇制イデオロギー造出のために、神道を操作し、仏教を弾圧し、キリスト教を国体に合わぬものと断じ、当時の新宗教をいかがわしいものとした。こうした政府による宗教への統制と干渉は、うわべだけの立憲主義といわれる帝国憲法の規定にもかかわらず、国家主義や軍国主義の潮流が台頭するにつれて、さらに甚だしくなり、特に15年戦争中は、宗教に対する国家統制は、権力者が宗教に土足で踏み込むような観を呈した。敗戦後の新憲法下で、一時小康状態が保たれたとは言うものの、またぞろ次第に国家権力による宗教への介入が手を変え品を変えて行われるようになった。挫折した靖国神社国営化の企図や、それに代わる首相の公式参拝の合憲化などは、ほんの一例である。政治家たちは宗教の何たるかを知らないから、政治的便宜によって「天皇教」という疑似宗教を勝手に作り上げ、やがてはすべての宗教をこれに従わせょうと画策するにいたる。このように、自分の都合で宗教を簡単に、臆面もなくいじくり回すという風潮および体質は、我が国の近代史に一貫して見られる特徴ではなかろうか。だから我々宗教者は、常に見張りを怠ってはならないのである。

 二十一世紀に後数年という昨今、またこの問題が急迫した形で登場した。それは宗教法人法の改正と、宗教による政治活動の規制を対象とする「宗教基本法」ないし「政教分離法」(いずれも仮称)制定の策動である。この度与党が宗教を取り上げようとしたのは、宗教的理由からでなく、政治的理由と狙いからである。一言で言えば、選挙の際に組織的動員力と集票力を行使する創価学会・公明党潰しが狙いであり、そのきっかけとして掴んだのがオウム真理教事件である。この事件が宗教に対する何らかの規制を一般民衆に世論として要求させる好機となった。

 宗教法人法改正のほうは、簡単に行くだろうと考えたようだが、意に反して宗教界全体から反対や批判が続出した。これまで自民党を支持していた諸教団のほうからも反対が出てきたので、自民党は説得におおわらわであった。これは学会勢力を抑えるためのもので、他の教団を統制しようとする意図は毛頭ないと、本音を露呈しながら説得に回ったが、宗教の側からすれば、この法改正が宗教にとってプラスになるものは何もないということがはっきりしていた。この法改正の過程で、宗教のほうは、こうした政治の勝手な振る舞いを黙視するわけにはいかず、宗教法人審議会の宗教代表とも連絡しながら、各宗教の当事者や学者からなる「宗教法人問題連絡会」を発足させてこれに対抗するという挙に出た。この改正は与党にとっても有利に働くとされたが、関係官庁としての文部省、その宗務課の役人にとっても利益があった。なぜなら、宗務課の人員は5人増え、予算は従来の三倍になり、役所としての権限は、宗教団体に対する調査権・質問権等によって大いに増大したかに見えるからである。こうして、宗教法人法の改正は95年の暮れに、不十分な審議のまま成立した。

 与党は、これに追い打ちを掛けるかのように、宗教教団の政治活動、なかんずく選挙運動を制限、あるいは禁止しょうとする「宗教基本法」ないし「政教分離法」を、自民党の宗教問題ワーキングチームの主導の下に、法案化しようとした。その骨子はすでに公表されているが、その下敷きになったのは、つとに指摘されているように、欧米の「カルト取締り法案」で、信教の自由との関連であまりに問題が多いので、例えば欧州連合の議会でも、たんなる決議止まりで、ついぞ法案としては日の目を見なかった代物である。ここでも目的のためには、法律上の辻褄合わせに終始することを辞さない日本の政治家の下心が見え透いているように思われる。すでに発表された法案骨子のあまりの酷さに反対や批判が続出し、それをかわすような法案作りは不可能に近いということが、与党提案者の側でも理解されるに及んで、党としてはこれを断念せざるをえない状況に追い込まれた。

 ワーキングチームの座長を務めた与謝野馨自民党代議士が、宗教法人問題連絡会の席に臨んで発言した内容は、この間の経緯をよく物語っている。彼は言う。「ある宗教団体が『世界に平和を』というとき、それは宗教上の主張であると同時に政治上の主張でもある。『皆が幸せに』というのも同様である。その辺をきっちり区別することの難しさが出てくる。そこで何とか政治と宗教の仕分けが出来ないものかと知恵を絞ってやったが、政治と宗教を分離するようなうまい条文を作ることはなかなか出来ない。作ると言論や結社の自由とか、政治的自由や良心の自由などに抵触することになって、政教分離法などというものはきっちり書けないということが、この半年ばかりの勉強で分かってきた。しかし自民党の中ではなかなか納得してもらえない。」つまり、政治家のほうでも政治目的のために宗教をどうこうしようというのは、そう簡単には行かないことを分かりかけてきたようである。

 この与謝野発言と相前後して、自民党の組織広報本部団体総局が、「宗教法人問題に関する団体総局の基本姿勢」という見解を発表した。これは、「長い年月を経て構築して来た宗教界との信頼関係が、同法(宗教法人法)の改正によって損なわれるとすれば、誠に遺憾という他ない。」という見地から、宗教界との関係修復を意図した文書であることは明らかである。本来、自民党を始めとして各政党、そして各候補者は、宗教票を当てにしてこれまで各宗教教団に色々な形で入り込んできたのが実情である。従って、創価学会の選挙活動を封じ込めようとして、宗教教団の政治活動を一切出来なくするような法律を作ろうとすれば、これまで自分たちが各教団から受けてきた便宜や恩恵を、自分たち自身も断念せざるをえなくなる。確かに農協や商工会議所が政党のために利用されるような政治活動をしてはならないことは、法律で定められているとしても、宗教はそうしたことに馴染まない。というのは、宗教は社会正義や国民の福祉の番人としての歴史的役割を果たしてきたし、それは権力の横暴や不正に対する監視、警告、提言の形や、選挙を含んだ民主主義的手続きによる政治活動の形を取りうるからである。宗教は、政治との関わりを遮断するならば、自閉的安住に陥って公共的役割を捨てることになり、他方、政治に没頭してうつつを抜かすようでは権力や利益の虜となって宗教の本質を失うに至る。この両極端に陥ることなく宗教の本来性を堅持することは、法律で可能となるものでなくて、宗教自身の自浄努力、自己精進を待たなければならない。そこでこの文書は言う。「わが党は……宗教団体の自主自浄努力に国民も期待しているのだという認識に至った。」しかし、そう言いながらも、「現在党内で検討されている課題」として、「@憲法20条、21条、89条の解釈についてA更なる宗教法人法改正の必要についてB巨大集団の社会的影響力についてC宗教法人と税制についてD宗教法人と政治活動のけじめについてE宗教と基本的人権の関係についてF改正宗教法人法施行後の問題についてGカルト対策について」等を列挙しているから、今後も何が飛び出してくるかは油断無く見張らなければならない。

 しかし、今回の与党と宗教界との対立からは、新たな希望の兆しが出てきたことも否定できない。先ず、政党や政治家が、現代の民主主義的立憲主義の下では、国家権力を背景にして宗教を規制しようとしても、そう簡単にやれるものではないということを痛感し、慎重になったということが挙げられる。宗教の何たるかを弁えず、宗教は利用すべし、さもなくば脅すべしといった、政治の宗教に対する伝統的態度が反省されるきっかけとなったことは、一歩前進であったといえないであろうか。そして次に、宗教の側でも、国民の幅広い期待に答えて、宗教自身の自浄能力を高め、財政的透明度を増し、宗教本来の現代的役割や存在理由を明確に打ち出していくという機運が高まり、そのためには、教理や伝統が違っても、色々な宗教が助け合い協力し合っていこうとする自然な動きが出てきたことを歓迎すべきであろう。これを政治と宗教の新しい歴史の始まりにしたいと切に願う。

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