会報60-2 (平成8年)
対談 宗教法人法「改正」を問う
京都仏教会

司会: みなさま方には大変お忙しい中ありがとうございます。最初に理事長の方から仏教会の今回の宗教法人法「改正」問題に係わる基本的な姿勢を述べて頂きたいと思います。


有馬: 今回の宗教法人法の改正については、だいぶ前から情報が入ってきておりまして、これは一つ間違えると大変な方向へ向かってしまうという危惧をもっていましたが、果してそのような形になりつつあるというのが実感です。機会ある毎に他の御本山の方々に改正の問題について伺ってみましたが、「私はよくわからない」とか「いや政治とは関係のない話ではないか」という方が多く、私はあ る意味で驚きました。宗教法人とは、どういうことなのかを肝心の当事者が全く理解していないというお粗末な状況なのです。このようなことから、各教団に訴えていくことが私ども仏教会の責任であると考えましたが、一番残念に思いますのが全体に盛り上がりが、足りなかった。特に全日本仏教会が事実上政府側になびいてしまったことは、ゆゆしき問題だと思います。これで法案が通るかどうかということよりも、これからも将来の課題として取り組んでいきたいと思い、今回の緊急討論会を開かせて項きました。どうか忌悼のないご意見をお述べ項き、将来の参考にしていきたいと存じますので、宜しくお願いします。


司会: それでは、文化庁宗務課の専門委員でおられました洗先生に、宗教学の立場からこの問題をとりあげていただければと思います。


洗: 私は今回の宗教法人法改正案作成の当事者に近い立場ですが、改正の内容や手続きに関して、どうしてこうしなければならないのか全く理由のないことのように思えます。宗教法人法は、ザル法であると言われてきましたが、この法律は決してザル法ではないと思います。憲法の保証する信教の自由を確保するために、行政庁にはあくまで認証事務に権限を限定している現行法に対して、今回の改正は所轄庁によって宗教法人を管理するという考えをもっています。中途半端な管理をしては不徹底になり、却って欠陥法にしてしまい、将来に禍根を残す改正になってしまうと思います。


司会: 今回、法改正の作業が政府与党に起こってきた背景には、政治勢力をもつ宗教団体への政治的攻撃があるわけですが、更に背後には日本国民がもっている宗教へのアレルギIといいますか、我々にすれば偏見というものが一つの大きな理由になっているということも言えます。そのへんにつきまして柳田先生から戦後を振り返ってお願いします。

柳田: 今は一般市民の理解を得て何が世の中の問題となっているのかを示していくことが宗教界の一番大事な仕事だと思います。戦後に与えられた憲法は日本国民が腹の底からつくりあげた憲法ではないため、近代欧米型の認識が押しつけられ、その下に宗教法人法が成立しました。その根底には、国民としては国家神道が日本を敗戦に導いたことに対する反省があるし、政治家には国家神道の誤りを正すという意図があって、新旧仏教に対しても法律全体としては合理的なものになっている。


司会: 宗教法人法というのは性善説に基づいているということを賛成派は主張していますが、私ども仏教会はこれに真向から反論しています。


洗: 現行宗教法人法は、宗教団体に法人格を与えることを唯一目的としている法律であり、決して宗教法人を管理するための法律ではない。社会的に法人として存在していることを認証するだけであって、宗教団体の内容や思想とか行動をチェックするものではありません。性善説をとっているなどというレベルではなく、宗教法人が誕生する手続きを決めた法律ですから、管理したり処罰したりする規定は入っていないだけの話なのです。なぜ法人法によって処罰したり規制したりしようとしないのかというと、宗教法人法というのは宗教法人だけに適用されるものですから、その中に規制を折り込むということになると、一般人に規制していないことを宗教法人であるがゆえに規制することになり、信教の自由を侵害することに繋がります。宗教法人法はそういう立場をとらない。宗教法人がもし仮に何か悪事をたくらむとしたら、一般人を規制する一般の法律で規制するということでいいというのが現行法の考え方です。


田中治: 宗教法人を確認できる一定のルールを作りましょうという法律であって、宗教団体への判断は一切していない。国家は宗教に対してノー・コントロールかつノー・サポートです。この国家の部分を捨象し、ノー・コントロールの部分だけを抜き出して、全然コントロールがないというふうに宣伝している。いい加減なところも認めているというふうに主張しているのです。しかし宗教法人は本来、セルフ・コントロール、セルフ・サポートなのです。


柳田: そこに問題があるのです。だから管理しようという発想をもって文部省を所轄庁でなく監督庁であるという改正法案を出してきたことも間違いないと思うんです。政府与党はこの問題を政治レベルではほとんど論議せずに、認証のあとは野放しだからオウムのようなことが起こり、市民が大変な被害を被る。だからもう少し規制を厳しくして最低限度の管理というものを盛り込まなければいけないとしています。
田中滋: 宗教法人に対する世論の風当たりは確かに強いものがあると思います。そういう中にあって、「宗教法人法は法人格の付与のみを目的とする法律である」という正論だけで対抗するのは非常にむずかしい。宗教法人をターゲットにして、それをダシにして法律を改正するということが80年代からあったと思います。例えば消費税問題では結局、仏教会などの反対で宗教法人に対しては導入されませんでしたが、宗教法人をダシにした動きでした。そういう経過を見ていると宗教法人というのは、最も攻撃しやすい対象のひとつであって、市民感情からすると、生産作業をしていないにもかかわらず裕福であるという感覚がある。しかし宗教家というのは、宗教思想の伝達者として社会の中に大きな影響を及ぼしており、そこに存在意味がある。これを抜きにして、市民感情をダシにして宗教法人をターゲットにしているという感じがします。

 日本人の問題としては、法律の改正ということがどういう意味をもっているのかがわかっていない。官僚に対しての疑惑が強いわけですが、その官僚機構が社会の中で権力を用いる大きな根拠は法律です。法律が存在することによって、それを執行するという立場に立ち、そのことによって彼らは存在している。宗教法人法を改正して管理する方法をとれば一体誰が喜ぶのか、国民はいまだに気付いていない。法律を作って規制することは、結局自分たちが常々疑惑をもっている官僚機構にプラスになってしまう。野放図な宗教の規制は「お上」に任せよう、問題が起きれば法律を作ればいいという発想は、本当に悲しいものがあります。それから国家による宗教の利用、それに対するブロックとしての政教分離ということの意味が改めて重要になっています。


柳田: 法理論を前提として「日本における宗教の役割」という現実を認識せず、政教分離を金科玉条として論議をするのは問題がある。


司会: 昨年の政界再編成をめぐつて自民党が創価学会に対して大変な危機感を抱きました。これまで自民党を支援してきた宗教団体を巻き込みながら何とか創価学会の封じ込め策を講じたいと考えました。しかし、それを党の機関として行うことはできません。宗教団体と自民党が一体となって法の改正に向かうと政教一致になってしまうからです。そこで自分たちの意図を実現するために四月会というダミー団体を作ったと私は解釈しています。実は自民党の中にも宗教と政治に関する組織や、創価学会対策のための委員会が設けられているのですが、これは宗教団体とは一切タッチしていない。四月合を使っていろいろと行ったわけですが、その資料などは自民党の委員会から出ていたと思います。この委員会は官僚を呼べますから、どうしたら宗教法人法改正案が憲法違反と言われないで創価学会に対して有効な攻撃を加えられる内容になるかを考え、今回の改正案を作ったわけです。

 そこで次のテーマは宗教と政治の関係、宗教と国家の関係ですね。戦後五十年間、宗教側も一定の見解を確立してこず、政治家も全く手をつけなかったのでまずここからやらなければならない。宗教と政治の関係で一番誤解しているのは、宗教が政党を作ってそれを支持する図式そのものが憲法違反だという捉え方です。宗教が政治に係わることは憲法上の問題にはならない。宗教が国家との係わりで問題となるのは、鋭くまで宗教の意思が国権の三権に作用して、その行使が行われた場合だけです。


田中滋: 一連のオウム事件において法律効果で一番大きく取り上げられたのは、警察が宗教団体に踏み込んだ場合、宗教弾圧であるというレッテルを張られてしまうということでしよう。それがこわくて踏み込めなかった、慎重になったという論理です。


司会: それは一般国民に対して実に説得力のあるセリフで、警察も与党もそれを言うのですが、本当に宗教弾圧だと言われるから警察が躊躇したのかというと違うんですよ。一般法を的確に適用していれば確実に摘発できたんです。弁護士が殺されているのに一向に捜査もしなかったのではないかと非難を受けているので、宗教団体の壁があったからむずかしかったと言訳しているのです。宗教法人であるという事実を巧みに逆用しているんです。


樺島: 何にしても政教分離が宗教の側から崩されて、宗教が政権を掌握するのはよくない。


洗: それじゃ欧米のキリスト教と何々党などと称しているのはどうなるのですか。憲法が禁止しているのは、国家が宗教に介入するということなんです。旧公明党などが単独で過半数を占めて政権を作ればそういうことが起こる危険性が大きいでしょうが、創価学会のケースでそういう危険が現実にあるのかというと、創価学会は最盛期においてもその得票率は5%ですよ。これが単独で政権をとるというのは現実性がない。新進党が政権をとれば創価学会が支配するようになるかというと、そんなことをすれば新進党は空中分解するでのはないですか。


田中滋: 選挙での5%というと、投票率が下がれば下がるほど大きな意味があると思うのですが。


長沢: 投票率が下がると宗教の組織力ということがいわれますが、一般世論が大きな流れを決めていくのですから、市民が大事な投票という行為によって意志表示すべきで、投票率が下がったからといってそれだけで宗教側を攻撃するというのはおかど違いです。自分たちのことを棚に上げて議論をするから、そういう論理になるのです。


佐分: 今回の法改正が、政争の手段として相手側の支持母体をやっつけたいという所から出発しているのが問題であると私達仏教会は主張しているのです。例えば、所轄庁にもう少し情報がほしいから如何でしょうかということで、行政側が宗教界全体に対して相談を持ちかけてきたのなら、こんなことにならなかったと思うんですよ。だけど行政庁の後ろには政治があって、次の選挙に有利になるために法律をいじった。その動機がおかしいのであって、法改正はピュアに行われるべきものです。


洗: 最初の動機は、オウム的事件の再発防止にあったわけですが、それは法人法改正ではできないことは誰にも明らかであるから引っ込んじゃったんです。だから、表向きの改正の理由としては社会が変化して法制度が時代に合わなくなったということですが、社会が変化して具体的にどこがどんなふうに時代に合わないのか、一向に説明がない。本当の動機は今おっしゃったように別の所にある。


司会: 一方において自民党にも、新宗連という巨大な団体が集票活動をしているわけです。彼らは完全に潜っていて、一般国民にはどの宗教団体が自民党を支援しているのかというのが殆どわからない。四月会に集まった宗教団体は、これで創価学会をやっつけられると思って自民党側にぐつと寄っていったのです。


洗: 創価学会の選挙活動を政教分離の観点で語るのは間違っていると思うんですよ。政教分離とは、政治も宗教に介入しないかわりに宗教も政治に介入してはいけないというものではない。宗教家や宗教団体が政治的な発言や活動をすることを許さない、政治参加の口実をあたえてしまうから宗教には政治活動をさせないというのでは、信教の自由を保障することにはならないのです。


司会: 法律の解釈をすれば、法制局もそのとおりの解釈を出しています。問題は、それがどの程度社会に馴染んでいるかということです。公明政治連盟が出たときに、宗教界は宗教と政治・政党という関係についてもっと議論すべきだったと思うんですよ。結局、このょうな問題が起こったときに宗教はどのような反応をすべきかということが問題なんですね。


洗: 本来この種の問題を受けて、宗教全体の意見が集約されるのが日本的だと思うんですよ。ところが今回、一番大きな宗教団体である日宗連は結局機能できなかった。それから、全日本仏教含も全く機能できず、むしろ政府与党側に回ってしまった。法律によって制約をかけているほうが、従来の日本の宗教の流れから言って馴染むのならば、そういう答えが出る。横のコミュニケーションが全く出来なかったことが、政府をしてたやすく国会へいかせてしまった理由の一つでしょう。


司会: ですから仏教会では、創価学会も入れて国家と宗教の問題に関して宗教界としての共通の認識を探ろうとしているんです。ところで、この法改正案が国会に提出できた背景に、オウム事件を契機とする世論の法改正への賛意があったと思われますが、物事が進行する時には常に世論が前面にくるわけです。例えば、今回もNHK・朝日新開・読売新開のそれぞれの調査で、皆過半数以上が法人法改正について賛成したと文部省も言うわけです。はっきりいって、このマスコミの態度はやっぱり批判されていい。


田中滋: アンケートは操作できるものですが、アンケートが嘘かというとそうでもない。国が行う調査では質問文の前書きに、例えば、宗教法人の問題については「最近オウムが問題にされているように」と、宗教法人の問題とオウムの問題を結び付けておいて宗教法人法の改正はどうでしょうかと間いかける。するとそちらにぐつと引っ張られるわけです。政府が政策をある方向にもっていきたい裏付けとしてアンケートをする場合、バイアスの入った仕組みにするわけです。しかし今回の場合、バイアスをかけずにやっても同じような結果が出たのではないかと思います。特殊な職業の人達がターゲットにされた場合、少々反対する動きをしても、なかなか世論の動きは変えることができない。ただ逆にいうと京都仏教会は目立つ存在であるのも事実なので、一般世論にいじめられ理解されないことを嘆くより、古都税の時のように「荒ぶる神」であり続ければ世論に対してインパクトがあるでしょう。 また、改正された法を無闇に運用させないためには、個々の宗教法人の役割が大切です。追い詰められている一つの法人を他の法人が手を叩いて喜ぶことは第二・第三のターゲットを生み出すことになるのです。


洗: 問題となっている「布施」ですが、基本的にこれは、見返りをもとめない一方的な犠牲という解釈です。だから項いたお布施について宗教者は、その宗教性ゆえに、今まで信者の個人的な問い合わせに一切応じなかったのです。ところが今回の改正によって、三千万以上の「収入」があれば一応開示しなければいけない。その意味からこの法令は、明らかに「宗教そのもの」に対する介入だと思いますね。


有馬: 「布施って何だろう」ということです。「喜捨」、よろこんで捨てるんだという意味、ここですょ。見返りを求めない犠牲ゆえに我々は、これを「浄財」と呼ぶ。見返りを求めたら、これは宗教から言えば「不浄財」なんであって、それなら銀行や郵便局に持って行くなり、欲望のために使えばいいです。


司会:
問題は、だます側はマスコミや世間から叩かれる。だけど、だまされた側は被害者になる。宗教の側から言えば、罪ぶかいんですよ。なぜかと言うと、布施の意味をわかっていないのです。見返りを求めて金を出して、その見返りがなかったからと言って訴えたりする訳だから、信仰の世界からすれば最も罪深い。


柳田: そういう点に関して既成仏教は、信者に対して充分な説明をしてこなかったということはあると思うんです。今でも宗教団体が集めた金に対して、世間は卑しさを持って見ているわけですが、法改正によって布施が表に出ることになる。そうすると、その卑しさに対して宗教団体も対抗しなければいけなくなるから、益々卑しくなっていきますね。


司会: はっきり言って、私達にとってこの法律は、宗教そのものに対する侮辱なんです。金額の多寡ではないんです。だから、これを受け入れるということは、極めて屈辱であり、その観点から改正案というものを捉えないと、宗教としての答えは出てこないんです。今回の問題をふまえて今後、宗教団体なるものが世界の中で信頼を獲得して、言われなき攻撃をうけないようにするにはどうするかということなどについてお話し下されば幸いです。


柳田: 仏教教学の世界では、ヨーロッパ経由のキリスト教化した非常にわかりやすいインド仏教を中心とする教育が近代化を支えてきました。インド仏教と中国で発達した大乗仏教とは全然違うのに、何か同じようなもののつもりでやってきて、今もそうしている。しかし、現場はインド中心のヨーロッパ経由の仏教というものを知らないから、旧態依然たる誤解された教学を信じている。そこへ付け込んだのが新宗教だと思います。既成仏教は安穏に眠って来た結果がここにあるわけで、そこが問われているのです。


田中治: 今回の事件を見ていて一番びっくりしたのは、一般の人は宗教法人は課税上優遇されていると理解していることです。しかも本来の宗教活動にともなって得た収益等も含めて優遇されていると思っていて、だがら‥国家的な強い規制の下に置かれる必要があるといったような論調が出てきていることです。憲法八十九条から言って国家の宗教にたいする出費は憲法違反ですから、優遇等はしてはいないのです。国民の持っている課税一般に対する怒りのチャンネルの中に宗教法人法改正問題をぶちこんで、それを媒介にして怒りを増幅するという形で仕樹けたのかなあと思います。本来の宗教活動については、「公益法人」としては利益が生じるはずがないから非課税なのであって、優遇でも何でもないのです。課税したくても、本来の非収益的事業については理論的に非課税だと、専門家はわかっているのに口を喋んで言わない。言うと大きな反響があるので、ただ宗教活動は公益性があるから非課税だとしか言わない。その論法が市民の腑に落ちないということがあります。公益性なら株式会社でもあるではないか、ものを売ったりサービスすることによって一国民に幸せな気持ちを提供しているから、何ら変わりはないじゃないかという反論はありうる訳です。そういうふうに考えると、私はいわゆる公益性があるから全面的に非課税でいいんだと言うことには必ずしもならないと思います。その点もう少し緻密な理由だてが必要でしょう。収益事業についてはフェアーな課税があって当然だと思いますし、公益法人は収益事業をできるだけ抑制すべきです。お金があるからといって大幅な収益事業を行うのは、やはりおかしい。こういうスタンスで今回の法改正や「俗論」には正面きって反論していったらいい。今回の法改正はしなくても、それは出来るということを、きちんと回答しなくてはいけない。


樺島: オウム事件によって、宗教法人の中が見える改正をしておかなければならないという意見がありますが、これに対する反論はあるのですか。


洗: 会社などの法人は中が見えているのでしょうか。また、あの改正案で中が見えるようになるのでしょうか。見えるとは、どこを基準に言えばいいのですか。税務署によって見えるということですか。


樺島: 見えるとすれば税務関係でしょう。


洗: 見えないと言われるが、犯罪にからむとかいう場合はやはり兆候が出るわけですから、それに対しては普通の法人や団体と同じように、宗教法人法にも、それぞれ担当する行政が一般法で対応して行くべきです。


田中治: それ以上は法制度の問題であって、ガラス張りにというのであれば国民総背番号制まで突っ込んで考えねばなりません。


洗: 私は法人法のおかげで新興宗教は、非常に活発に活動できたと解釈したいです。新興宗教、カルトは危ないというのは、逆に非常に危ないレッテルだなあと言う感じがします。新興宗教は、一九七〇年前後から余り巨大化しなくなりますが、彼らは全然違った次元に何かを感じたんです。近代合理主義の単純化していく社会の中で、生きていく意義が見つけられずにバーチャルリイアリティみたいな世界を求めていた人々に、新興宗教がわかりやすく目的を示したと言えます。そういった点で戦後の日本人は宗教に対する意義を持たなかったんじゃなくて、見守っていたのですが、伝統仏教などは殆ど現実を捕まえ損なったという状況があったのでしょう。柳田先生がおしゃった通り、近代仏教学は宗祖の研究やインド仏教の原点という所ばかりに走って、日本人の生活と密着してきた神仏習合という日本仏教の原点を顧みなくなってしまった。しかし、それでも寺の現場では組織仏教を含めてそれなりに宗教的な働きをしていたと思うのです。新興宗教の方は救いを指示できたと思います。ある意味では、本当は伝統仏教が持ちえていたような世界を実は志向していたように思うのです。それをお寺の現場も仏教学もうまくキャッチ出来ずに置いていかれたということになるでしょうか。


長沢: 今は心の時代だと宗教家は叫んでいますが、凡そ人間というものは経済的に豊かになって衣食住を足りれば、心も満たされるわけではなくて、逆に心は遠のいてゆくものなのです。純粋な眼差しで宗教に布施をし、純粋に教えを受け入れるということは、成熟した経済環境にある我が国では、もはや不可能だということになるのでしょうか。宗教に対する信頼関係を生み出していけば、こういった問題が起こってくる時も、政治に介入されずに、宗教者が人々の目を開かせていくということが出来ると思いますし、それが宗教の持つ重要な役割じゃないかと思います。


理事長: 皆さん、お忙しい中をお集まり項き、貴重な御意見を聞かせて項きまして、まことにありがとうございました。このような問題で議論しなければいけないその事の根本には、私達宗教家の日常活動の怠慢があるというところを世間は見ています。この事実をよく認識した上で、今後私共はより積極的に役割を果たすという姿勢をもって更なる議論を深めて行きたいと存じます。


司会: 伝統仏教は、人々の心の問題を把握して、それに対してどういうメッセージを出せるのか。混迷する社会で新興宗教がどんどん拡大して行くということは、異常な現象でも何でもなく、ごく当然の事でしょう。いずれにしましても、既成仏教でこの種の問題を正面から受け止めている、京都仏教合の責任は非常に重いと思います。本日は本当にありがとうございました。



平成七年十一月十九日

相国寺山内承天閣美術館にて収録

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