会報60-1 (平成8年)
宗教法人法「改正」論の問題点
小林節

 今回の宗教法人法改正論は、さまざまな無知と誤解と偏見の上に構築されている。

1 信教の自由に関する無知

 まず、宗教の自由とは、いずれの宗教を信じることも信じないこともそれぞれの「私」の自由だということであるが、その「自由」とは、何よりも、民法や刑法といった正当な法律に反することをしない限り「放っておいて」もらうこと、つまり、他から「干渉されない」ことをその本質とする。だから、今回の改正案のように、本来的な宗教活動と表裏一体の関係にある宗教法人の財務を文部大臣か知事に定期的に報告し、さらにそれを「利害関係人」という事実上は誰でもなれる立場に対して開示つまり公開することを法律で強制する制度は、典型的な、自由に対する侵害なのである。ところが、多くの人々は、「その程度のことを公開されて何が困るのか?」とか、「何か、見られて困る事でもしているのか?」といった評価をする。しかし、事は「見られて困る」から反対しているのではなく、「見られるべき筋ではない」から反対しているのである。

2 公益法人に対する誤解

 また、多くの人々は、宗教法人が公益法人の一種である点をとらえて、「公益性がある以上、公的に報告する責任があるはずだ。」と考えている。しかし、典型的な社団法人や財団法人のように、いわば行政庁の下請のように「...業界の業務の調整」といった特定の具体的な公益を追求する場合と違い、公益法人たる宗教法人制度に託された公益とは、この社会の中に広く多元的に諸々の宗教がひろまることにより、価値観の多様性が保障された自由な社会の形成に寄与することである。だから、その「公益」なるものを、個々の宗教法人のレベルで確認するならば、それは、それぞれにその教団らしく(つまり個性的に)宗教活動を行うことに尽き、それと公権力による画一的な管理とは、本来的に相容れないのである。

3 非課税に関する誤解

 もちろん、ここまで言っても改正論者は黙らない。そして、「宗教法人は免税等、公的な優遇を受けている以上、いわばその代償として、当然に、公的な管理を受ける義務があるはずだ」。と言われてしまう。しかし、これも大きな誤解である。まず、「免税」とは本来は払うべき税金を特段の事情で免除される一種の特権状態を意味するが、宗教法人のお布施など本来的な宗教行為としての「収入」は、もとより課税の対象となる「もうけ」がないために課税できない(つまり非課税な)だけである。つまり、宗教活動の過程でいわば心の証として提供されるお金には、営利法人や個人に関して課税の対象とされている「収入−経費=もうけ」という関係がなく、そういう意味で非課税なだけである。加えて、宗教法人のお布施について課税すると、それは、本来的な宗教行為を税務調査の対象にすることになり、公権力が宗教活動に介入することを禁じた政教分離の原則に反してしまうので、そういう観点からも、本来的宗教活動は非課税にされているのである。

 もちろん、宗教法人も、宗教活動に関連した「収益事業」を行った部分には現在でも課税されており、そのための報告も行い調査も受けている。それでも、そこに軽減税率が適用されている点を改正論は批判する。しかし、例えば、宗教法人が布教のために出版する図書からの収入に他の一般の図書からの収入に比して10パーセント軽い税率が適用されていることのどこが不当なのだろうか。むしろ、現代情報社会における正当な布教活動に不可欠な事業としての出版は、本来的宗教活動の一部としてむしろ非課税にすべきだという議論があってもおかしくないくらいである。

4 宗教法人法に関する誤解

 また、今回の改正案を支持する人々は、都道府県境を超えて活動するに至った宗教法人の所轄庁は知事よりも文部大臣であるほうが自然だと言う。確かに、宗教法人を常時監視することが所轄庁の仕事であるならば、既に全国展開するに至った法人の所轄庁は知事よりも大臣の方が便利だろう。しかし、昭和26年に制定された宗教法人法の立法趣旨はそのようなものではない。つまり、同法は、原則として、通例は始めは一人の偉人が起こした宗教が、次々にその回りに信者が集まり、いずれそれが社会通念上の「宗教団体」らしくなった段階でその事実を確認するだけの、いわば宗教団体の「出生届」を受理する権限だけを規定したもので、そういう意味で、所轄庁は、その宗教法人が生まれた土地の知事であることがむしろ自然なのである。もちろん、ここまで言っても改正論者は黙らない。曰く、所轄庁には、その後、違法行為を行った法人の解散請求などの任務もあり、だからこそ、全国展開した宗教法人の所轄庁は文部大臣に変え、かつ、所轄庁には法人に対する質問権(一種の調査権)を与えなければならない。しかし、これも誤解である。まず、宗教法人が違法行為を行った場合、警察、検察、税務署、保健所、市役所等、国と地方の行政組織がきちんと機能している限り、それらの機関を通して、解散請求に必要な情報は所轄庁に届くはずになっている。にもかかわらず、現実にその情報が滞ったとしたら、それは、行政の総合調整機能を担っている内閣(総理大臣)が怠慢であるだけのことで、決して現行法に欠陥があるわけではない。しかも、現行法の制定時には、国会で、あえて議論をしたうえで、所轄庁に解散請求権は与えるがそれでいてその根拠になる事実を所轄庁が独自に調査する権限は与えない…とされたのである。そしてその理由こそが「信教の自由」に対する配慮だったのである。つまり、現行法は、文部省がいわば「思想警察」のように宗教団体を恒常的に管理する体制は信教の自由を侵害し政教分離の原則に反するとして、あえて避けたのである。にもかかわらず、今、そのような制度が、冷静で十分な議論も経ずに構築されようとしている。

5 政教分離に関する誤解

 なお、一連の議論の前提として、政教分離の原則に対する根強い誤解もはびこっている。政教分離とは、信教の自由の保障を確実にするために、公権力は宗教活動の自由に介入してはならない…ということに尽きる。まず、信教の自由の効果として、教義の赴くところ、「世直し」の一環として真摯に政治活動を目ざす宗教団体があるのは自然で、それはその団体と団体の構成員の自由である。それに、国民には誰にでも結社の自由と(政治的)表現の自由が保障されており、さらに、成人には参政権がある。だから、選挙関係法令に違反しない限り、宗教人も宗教団体も政治活動を遠慮する必要はない。それに、宗教団体(つまり宗教人)なるが故に政治活動を法的に制約されるとしたら、それは、信仰の故に参政権や表現の自由が制約されることで、それを裏返せば、そのような制約を圧力として信仰の放棄を迫るに等しく、これこそ、典型的な宗教弾圧の一種である。

 法律が改正された後は、政令、省令、通達等が「整備」され、規制が強化されていくのが、行政の先例が教えるところである。

    (平成7年11月23日稿)

ウィンドウを閉じる