会報53-1 (平成4年)
「宗教活動」とは何か −古都税反対運動と景観問題とを通して考える−
京都仏教会「宗教と政治検討委員会」委員
追手門学院大学 助教授 田中滋

 あらためて「宗教活動とは何か」と問われて、僧侶の方々は一体何を想起されるのであろうか。言うまでもないことであろうが、宗教活動とは何かということは各宗派が信奉するところの教義によってそれぞれにおのずと決まって来るはずのものであろう。しかし、税務を含めた日常的な寺院経営に腐心している多くの僧侶の場合、意外に、宗教法人税制上で言われるところの「宗教活動」、すなわち「公益事業」や「収益事業」との対比の下で<一般的>に規定されているところの宗教活動ということになるのではなかろうか。宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成すること、という例の規定である。

 「宗教活動」のこの法的規定は、もっともなものに見えるし、すでに戦後何十年間かの歴史をもち、宗教者の間で馴染み深いものとなつているかに見える。しかし、この規定には、何か重要なものが欠落しているように見えるし、それゆえに明治憲法第二八条の「日本国臣民ハ安寧秩序ヲ防ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於イテ信教ノ自由ヲ有ス」という条項の精神が未だに生きているかのように見える。というのは、この宗教活動の規定は、<既存の>宗教教義をひろめ、<既存の>儀式行事を行い、及び<既存の(既に獲得された)>信者を教化育成すること、という風に読めてしまうからである。すなわち、この規定からは宗教が本来もつはずの「革新性」というものが見えて来ず、「安寧秩序」を妨げず「義務」に背かないものが宗教であると主張されているかに見えてしまうからである。<既存の>宗教というものは、それと国家あるいは社会との間の軋轢・確執を大なり小なりすでに解消し、革新性よりは自己組織の防衛にすでに比重を移しているというのが一般的だからである。

 しかし、歴史を見れば明らかなように、宗教というものは、それが個々の人間の自己革新を志向するものであれ、あるいは社会革新を志向するものであれ、革新性と不可分である。教義を「創造・再解釈」し、その教義を象徴するような儀礼・儀式を「生み出し」、信者を「拡大」するのも、宗教であり、宗教活動であると言えよう。こうした宗教の革新性は、しばしばその宗教を政治あるいは社会との対立へと導く。それは、一つには、その革新的教義がその社会の価値体系と衝突するからであり、また二つには、宗教的革新というものがしばしば社会の周辺的部分から起こってくるからである。このように考えれば、政治の所産であるところの宗教活動の法的規定が上記のようなものになっているのも、その規定の歴史的経緯はさておき、納得がいくと言えるかもしれない。

 革新的宗教と政治あるいは社会との対立には様々な形態があり、まさに様々な結末を迎える。こうした宗教と社会あるいは政治との対立という大問題を今ここで扱おうなどというのではない。ここで論じたいのは、宗教的革新というものを社会の他の構成員がどのように見るかという問題である。それは、端的にいえば、非難、蔑視、軽視、忌避、恐怖などといった様々な否定的・拒否的感情あるいは態度の入り交じったものであると言えよう。

 そこで身近なところで思い出されるのが、古都税問題ではなかろうか。あの当時、マス・メディアは寺院側の行動をどのように報じたであろうか。「四悪僧」、「六人組」あるいは「黒幕」等々、今となっては懐かしく滑稽でさえあるが、これらの言葉は当時の人々の驚きを如実に示していると言えよう。宗教活動の法制上の規定の中にこぢんまりと収まっているはずの既成仏教の僧侶のラディカルな行動にたいして人々が抱いた感情をである。反古都税運動というものは、通常の意味での宗教革新ではもちろんない。しかし、宗教革新がもたらすのと同等の逆境を反対運動に関わった人々にもたらしたと言えよう。

 宗教的革新は、それがラディカルなものであればある程に社会からの反発は強くなるが、一方では、教義そのものに対する評価からではなくとも、他の様々な要因(たとえば政治的対立)からその革新を評価する人々をも生み出してくる。宗教的革新がその後どのような経緯をたどっていくかは、それに対する反発と評価の帰趨によって決定されるわけである。古都税反対運動の場合も、たとえ運動そのものの主義・主張ではなくとも、それを担った主体を評価するという人々をやはり生み出してきたと言えよう。この度の景観問題についても、同じことが言えよう。

 古都税問題以後、京都仏教会とその構成寺院は、従来以上に社会から注目される存在となったと言えるであろう。今それは、政治的に見て宗教諸勢力の片隅(周辺)にあった存在から、情報発信源としての存在へと変貌する格好の時点に立っていると言えよう。これは、第一次・第二次文化観光施設税以後と比較してみればよく分かるのではなかろうか。この第一次・第二次文化観光施設税問題の時にも反対運動があったとは聞くが、結局は妥協の下に税条例そのものは施行されている。この当時の寺院・僧侶の態度は、社会一般からすれば、まさに「宗教者らしい」そして紳士的な態度であったということなのかもしれないが、それ以後の経過はどうであったと言えるのであろうか。行政の下請け的な団体が一つ設立されたことと、何年後かの古都税という形での税条例の復活ではなかったか。

 『音舞台』『音麗夢』といった文化事業のようなものはよいが、古都税反対運動や景観問題への取組みといった社会的非難を招くようなものは如何なものか、といった考え方は、恐らく成り立たないであろう。後者という逆境があったがゆえに、前者が宗教的事業として成立し得ているのではなかろうか。

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