会報62 (平成9年)
都市の記憶と宗際のこだま
大阪府立女子大学 学長
京都大学名誉教授 上田正昭

 平成六年(一九九四)は延暦十三年(七九四)の平安遷都から数えての平安建都千二百年の嘉年であった。京都市を中心に、その千二百年を記念するさまざまなイベントや施設の新設などの事業が実施された。そして同年の十一月八日は、「平安宣言」が内外に発表された。平安遷都千百年を記念した明治のおりのイベントや事業と比較すると、そこには少なくとも三つの大きなちがいがあったと思われる。

 そのひとつは、明治の場合は「遷都」を記念し、平成の場合は「建都」を記念したことである。この「遷」と「建」とのわずか一字の用字のちがいは、なんでもないことのようだが、そこには大きな理念のへだたりがある。「遷都」の主体は都を遷す支配者層の側にあって、「建都」の主体は都をつくる市民層の側に主体があるとみなしうるといいうるかもしれない。「遷都」と「定都」とは明らかに異なっていた。

 鴨長明は『方丈記』のなかで、「嵯峨の御時、都定まりける」と明記しているが、都が遷されたそのおりに、平安京ができあがったのではない。その後も都づくりはつづけられて、「定都」の代を迎えるのである。「遷都」から「定都」へという鴨長明の都市史の認識はきわめて妥当であった。「建都」には「遷都」後の都づくりへの展望も秘められていて、それなりに意味の深い用語であった。議者の一部には、「遷都」を「建都」にしたのは、千二百年協会の恣意的な造語であり、史料にそのような用例はみあたらないとする批判があった。しかしそのような批判は必ずしも正確ではない。「建都」・「建国」の用語ばかりではなく、たとえば『続日本紀』には「建都」の用例もある。明治の平安遷都千百年のさいにも、「建都」の語を用いた史料があった。

 そのふたつは、明治の場合にもイベントはあったが、その重点はいわゆる三大事業(第四回内国博覧会の開催、平安神宮の創建、京都−舞鶴間鉄道の誘致開設)にあった。平成の場合にも、注目すべき事業はあったが、どちらかといえばイベントがさかんであって、その数は千九百八十六件におよぶ。

 意外に気づかれていないのは、その三つ目である。延暦十三年から数えての遷都千百年は、明治二十七年(一人九四)のはずであった。ところが明治の人びとは、その翌年の明治二十八年を記念すべき千百年の嘉年とした。したがって平安神宮の完成も明治二十八年の三月であり、遷都千百年の紀(記)年大祭も、明治二十八年の十月二十二日に挙行されている。そこには、いくつかの理由が考えられるが、日清戦争の勃発のほか、明治の人びとなりの論理があった。長岡京から平安京への桓武天皇の遷幸は延暦十三年の十月二十二日であったが、大極殿はもとより未完成であった。明治の人びとは、大極殿がでさあがった延暦十四年を起点として、明治二十八年に遷都千百年としての記念式典を実行したのである。

 建都千二百年の「平安宣言」には、千三百年に向っての決意が表明されていたが、明治二十八年の遷都千百年記念を出発とするならその百年後の千二百年の記念の年は、平成六年(一九九四)ではなくて、平成七年となり、昨年は千三百年への初年ということにもなろう。

 改めて建都千二百年の記念イベントなどについてかえりみたのは、平安京についての誤れる都市の記憶があまりにも多くみうけられたからである。平安京という都市名の印象がわざわいして、平安京はきわめて平安楽土の首都であったかに思われがちである。さらに平安時代という時代名から、人びとは王朝貴族の文化のみを連想しやすい。だが平安京の内実は、けっして平安楽土の都ではなかった。あえていうなら、非平安の都であった。平安京という都市名は、遷都のさいからすでに存在した。それは延暦十三年十一月八日の詔をみても明らかである。

 すなわちその詔には、「此の国は山河襟帯にして自然に城を作す、よろしく山背国を改めて山城国となすべし、また子来の民・謳歌の輩、異口同辞し、号して平安京といふ、また近江国滋賀郡の古津(大津)は先帝(天智天皇)の旧都、今輩下に接す、昔号を追ひて、大津と改称すべし」と述べられていた(『日本紀略』)。この詔にもはっきりと記されているように「平安京といふ」とある。延暦十三年十一月八日の詔のなかみは重要であって、遷都によって山背国を山城国にするとあり、さらに近江の大津を強く意識しての遷都であったことがうかがわれる。遷都にもとづいて都所在地の国名の表記を改めたというのも珍しいし、また桓武天皇の父君光仁天皇が、それまでの天皇が天武天皇の皇統であったのに対して、天智天皇の皇孫であり、天智天皇の大津宮が平安遷都の代によみがえっていることも軽視できない。

 桓武天皇は三都の天皇であった。平城京で即位、延暦三年に長岡京への遷都、そして平安京へ。日本の天皇で三都にまたがる天皇はほかにはない。なぜ長岡京から平安京へ都が遷されたのか。その理由についての私見は別に詳論したが(『平安京から京都へ』小学館)、長岡京の再度の洪水、早良親王の怨霊へのおそれのほか、蝦夷征討とのからみや、さらには琵琶湖の大津を中心とする水陸の便なども考慮されていた。ついでながらにいえば、普通名詞としての「京師」や「京都」ではなく、首都名としての京都の史料上の初見が、『中右記』の承徳二年(一〇九八)三月二十一日の条のころからであるのに対して、平安京という都市名が、遷都のおりからすでに具体化していたこともみのがしてはなるまい。

 平安京そして京都の非平安的おもむきは、たとえば治承・嘉永の争乱、応仁・文明の大乱、幕末の禁門の変などによる多大の被災、あるいは天明の大火や寛正の大飢饉、文禄・慶長の大地震などにみられるようなたびたびの苦難をふりかえっただけでも、きわめて明瞭である。くりかえす兵火・天災・人災にもかかわらず、そのおりおりの危機をのりこえて、不死鳥のようによみがえってきたのが、平安京であり京都であった。

 全国の国宝の約二十パーセント、全国の重要文化財の約十五バーセントが京都に集中する。その内容は平安時代のみに限定されているわけではない。国の指定史跡を含めて、原始・古代から近代・現代におよぶ。私のいう「全時代性」が、京都の歴史と文化を特色づける。平安京そして京都の文化を、王朝貴族の文化のみで語るわけにはいかない。宮廷を中心とする文化はもちろんのこと、あまたの社寺の文化もはっきりと実在する。いわゆる勅祭社や各宗本山をはじめとする、全国屈指の社寺の多くは、平安京・京都で造営されてきた。

 十五代におよぶ室町幕府に象徴される武家の文化、町衆や被差別民衆の文化の輝きも、その歴史と文化の伝統と創生を多彩にしてきた。平安京そして京都の歴史と文化の創造に、海外からの渡来の人びとが大きく寄与してきたこともたしかな史実であり、その世界性・国際性も、改めて注目するにあたいする。平安京・京都の歴史と文化は、たんなる伝承の歴史と文化ではなかった。古きを守り新しい息吹きをとりいれての不断の創造的要素を加えての伝統と創生の文化を構築してきた。平安京そして京都は、日本のなかの最大の宗教都市でもあった。それは古社・名刹の代表的な神社や仏閣が数多く鎮座・建立されているばかりでなく、実際に都の歴史と文化の発展に多大の寄与をしてきた。しかもその史脈の流れには、神と仏の習合が濃厚におりなされていた。もっとも宗派・教団間の論争や対立がなかったわけではないが、基本的には共生・共栄の軌跡を歩んできたといってよい。

 ここで改めて想起するのは、室町時代の上方商工業者を中心に具体化してくる七福神の信仰である。えびす・大黒天・弁才(財)天・毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人の福神信仰には宗際の神と仏そして神仙の融合が躍如としている。えびすの神は、日本の神であって、ひるこあるいは事代主神とされているが、大黒天・弁才天・毘沙門天は、仏教の天部の仏であり、福禄寿・寿老人は道教の神仏である。布袋和尚は唐末のこつじきの上人であった。異なる宗教の神や仏、神仙や上人を七福の神としてあおぎまつるその信仰は、京洛のちまたに大きなひろがりをみせた。京都は宗際の都市でもあった。各宗・各派の独自性を尊重しあいながら、共生し共栄した宗際都市のありようが、都市の記憶のなかによみがえる。利他行こそ人びとにこだまする。

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