会報59-2
仏教から学んだリーダ論
稲盛和夫

 私は今から三六年前に京セラを、また一一年前には、京セラを母体に長距離通信事業などを行う第二電電を創業した。ともに大変順調に成長し、今では両社あわせて売り上げが約一兆円、税前利益が約一五〇〇億円という規模になっている。振り返ってみると京セラを創業以来、自分でも不思議と思えるほどの人生を歩んでいる。

 しかし、京セラを創業するまでの私の人生は、不運の連続とさえ言えるものだった。12歳の時には当時不治の病と言われた結核を患い、また、志望した中学や大学の受験にも、さらには希望した会社の就職試験にも失敗するなど失望の連続だった。そのような全く不本意な人生を歩む中で私は「人生とは何か」「人間とは何か」を深く考えるようになり、仏教やその他の宗教・哲学の勉強を必死でするょうになった。また、京セラ創業以後は「集団のリーダーとはいかにあるべきか」を日夜真剣に考えつづけた。

 こうして六〇歳を過ぎた今、自分の経験やこれまで学んだことから「人間とは何なのか」「リーダーはいかにあるべきか」が少しは判ってきたような気がする。ここでは、それについて述べてみたい。

 先ず「人間の本質は何か」と言うことである。
 私は仏教の「山川草木悉皆成仏」という言葉が、人間の本質、ものの本質を表していると思っている。この言葉は全ての人間にも、また草や木や石や川のようなものも、あらゆる自然に仏が宿るということを意味している。このような考え方は、一般的にはアニミズムといわれ、原始宗教に共通のものだが、私は仏教におけるこの言葉の中には深い哲学的な教えが含まれていると思う。

 人間の本質について、東洋哲学の大家の井筒俊彦先生は次のように述べている。
 『人間の本質を解きあかそうと瞑想していくと、精妙で純粋な、限りなく透明感のある意識に近づいていき、自分自身が存在するという意識はハッキリとあるが、それ以外の五感はすべてなくなり、最後には「存在」としか言いようのない意識状態になる。その意識状態こそが人間の本質を示しているのではないか。そうだとすれば、普通、花を見て「ここに花が存在する」というけれども、「存在が花をしている」と言ってもおかしくないのではないか。』

 つまり、井筒先生は、自分だけではなく他の人も、いや森羅万象あらゆるものが、「存在」としか言いようのないものだといわれているのだ。このことを著名な心理学者の河合隼雄先生は「あなたは、花をしているのですか。私は、河合をしています」と表現をされている。「あなたという存在は、花、を演じておられるのですか。私、という存在は京都大学名誉教授河合隼雄を演じていますよ」という意味である。

 仏教の「山川草木悉皆成仏」という言葉、そして井筒先生の話はすべて同じこと、つまり、森羅万象生きとし生けるもの全ては等しく同じルーツ、同じものから成り立っていることを示している。私はここに人間の本質が表されていると思う。

 現在、地球上には数十億の人類がいるが、ひとりとして同じ人はいない。姿恰好も違えば、性格も能力も全て違っている。ところが生まれる前に、「私はこういう能力を持ち、こういう姿で生まれたい」と思ってこの世に出てこられた方はひとりもいない。もの心がつき気が付いてみると、現実の自分があるだけなのだ。つまり、人間はこの宇宙をつくつた神のいたづらか偶然か知らないが、たまたま現在の才能と容姿を持ってこの世に生まれてきただけであり、自分の意志で生まれてきたのではない。神様が存在するとすれば、自分の才能や容姿は神様に偶然項戴したものであり、たとえ、それぞれ才能や容姿に違いはあっても、人間は皆本質的には同じなのだ。

 そうであれば、集団のリーダーにとって必要なことは、たとえ如何に才能に恵まれていようとも、その才能はたまたま自分に与えられたものと考え、その才能を社会のために惜しみなく使うことなのである。また、人間は皆本質的には同じはずなのだから、いかに成功しょうとも、決して奢らず、常に謙虚さを維持し続けることなのである。

 しかし、残念ながら普通の人間は努力をかさね、ある程度成功すると、その成功は自分の持っていた才能の結果だと思ってしまう。そして、知らず知らずのうちに奢りがうまれ、謙虚さを失い怠惰になり、結局は没落してしまう。つまり、何も意識しなければ、成功そのものが、自分自身が気付かないうちに自分を奢り高ぶらせ、自分を堕落させてしまうのだ。

 私自身もそのような経験を致した。京セラをつくり、ファインセラミックスの新しい技術を開発し、全く新しいセラミックスの世界を切り拓いた。そして会社は驚くようなスピードで成長していった。実はその頃、私も、自分の才能に過信を持ち始め、奢りが出てきそうになっていたのだ。しかし、その時、私はこの人間の本質は何かを改めて真剣に考えた。京セラという会社もファインセラミツクという技術もこの世にたいへん大切なものかもしれない。しかし、よく考えてみると、たまたま神が私にそういう才能と役割を与えただけであり、その会社を経営するのも、その技術を開発するのも、何も私である必要はなく、ほかのBでもCでもDでもよいのではないか。そのことに気づき、私自身、自分の才能に溺れ、傲慢になっているのではないか、と自分に猛省を求めたのだ。そして、「自分の才能を自分のものと勘違いしてはならない、謙虚にして奢らず、世のため人のために役立つよう、さらに努力を続けなければならない」と自分に言い聞かせてきたのだ。一人一人の人間はたまたま与えられた才能や容姿を持って生まれ、この現世という舞台で一生に一度の劇を演じているとするなら、その時に偶然主役を演じている人間も、脇役を演ずる人間も裏で黒子している人間も、小道具や大道具の舞台装置を作っている人間も、場内整理をする人間も、本質的にはみな同じはずである。そして、その劇は、つまり社会は、あらゆる役を演じる人々によって成り立っている。

 たまたま私はいま主役を演じさせられているかもしれない。しかし、それは私である必然性はなく、私の才能は現世における神からの一時的な預り物である。この宇宙をつくつた創造主は、私に素晴らしい才能を与えたかもしれないが、その才能は「世のため人のために使え」と言ってたまたま私に与えたものであり、それを私が私物化し、私個人のために使ってはならない。私はそう思い、努力を重ねてきたつもりだ。

 この自分の才能を私物化してはならないという考えを本気で実践していこうとすると、大変厳しい生き方を強いられる。才能があるばかりに自分を捨て、社会のために生きなくてはならないからだ。しかし、もし、自分の才能は自分のものだと思えば、その瞬間に人間は奢り高ぶってしまい、それまでの成功を台無しにしてしまう。

 リーダーにとって最も大事なことは、人間の本質を考え、自分の才能を私物化しないように、また奢り高ぶらないように、常に自分自身を強く戒めて生きることではないだろうか。

 私は、仏教の「山川草木悉皆成仏」という言葉には、このような人間の本質を、またリーダーのあり方を教える深い意味が込められていると思う。そして私自身もこのことに気がついたお陰で、素晴らしい人生が歩めていると感謝している。

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