会報52-2 (平成4年)
京都に「明日」がなくならないように
評論家 犬養智子

 まずはよかった!京都ホテルの工事延期の発表を知って、私は胸をなでおろした。大多数の人々も同じ思いだったに違いない。 「どうしたのや京都は?」「自殺行為しているのに気づかないの、京都は」が、春以来、会う人々の口をついて出ていた。それが、「ほんとによかった!」「とりあえずはネ」に変わった。

 ぎりぎりだった。十一月二十二日工事着工予定直前の、二十日に京都ホテル側が折れたのだから。京都のため、そしてホテルの将来のためにもよかった。私自身、高層化した京都ホテルには泊まらないだろう。それほど、京都での高さの問題は深刻だ。問題はそれを深刻だと思わなかったホテルや市当局にある。高層ビルが市民サイドから問題にされると、造る側はしばしば「良好な都市景観を創出する」(だから高層化しても大丈夫)なんて言うけれど、こんな抽象的な、そしていい加減な言葉はない。

 私は京都に年中遊びにくる。だから京都は私にとって第二のふるさと、もっと本質的に言うなら、日本人としての心のふるさとである。だから、京都の問題は、私にとってよその都市の他人事ではない。緊急の大事なのだ。私が泊まるホテルは京都グランドだけれど、このホテルから見る風景だけでも、京都の変化のおそろしいスピード、京都の景観が破壊されつつあることは一目瞭然なのだ。ほんの一例をいえば、京都はまわりの山々が町中から見えるのが、財産だった。それなのにもう京都グランドから東山はなかばしか見えない。もし京都駅の駅ビル(中に入るデパートとホテルのために高層化されるという)がコンペティションで勝った設計案どおりに着工されれば、山などまったく見えなくなる。京都に来た旅行者は、駅ビルの壁を眺めさせられるわけだ。

 今回はとりあえず工事が強行されるのは食い止めた。でも、問題はまだ山とある。京都ホテルはやり直しでどれほどの高さにするのか。駅ビルはどうなるのか。京都市は高さ問題をどう解決するつもりなのか。私たちが注視しなければならないのは、京都ホテルが折れたのは誠意をもって問題の解決に当たるつもりなのか、外聞がわるいから一歩後退したに過ぎないのか、だ。 つまりひとまず危機は回避されたけれど、京都の危機は去っていない。なぜなら京都の破壊を放置しあるいは進めている根本の行政サイド、そして京都の経済界が、京都の景観を保全するために努力をする保証はいまのところ無いからだ。京都千年の将来を考えて、市内高層化をとりやめるつもりがあるかどうか、を見極めていかなければ。

 私はこの危機の回避が、仏教会の強い措置−京都ホテルや関連ホテルの利用者の参拝拒否−ではじめて成功したことに感動と驚きを受けた。仏教会の「参拝拒否」の新聞を読んだとき「よくやった!」と喝采した。TV朝日の生番組でも「賛成」を明言した。なぜなら目的を勝ち得るためには戦術がいる、その戦術として断然すぐれているからだ。市民の反対意見には知らんぷりするのが力を持つ側の態度なら、それに対抗するには何らかの力が必要だ。お寺の力がそれに使われるのは当然じゃないか。これについてはまちがった説を言う人もいた。一は宗教家らしくない、という意見。二は民主主義なら議員に陳情すればいいという意見。

 一は、洋の東西を問わず宗教も闘うという歴史的事実を忘れている。日本なら南都北嶺についての歴史を読んだことがないのだろう。しかしこれは頭脳的戦術で物理的な力を使うわけではない。しかも最後のぎりぎりになって使われた戦術だ。仏教会は順序を踏んで回答を待ち、誠意を得られないので、踏み切ったのだ。二は、民主主義は、間違ったことがあれば市民は自分で行動する、という原則を忘れている。民主主義は無抵抗と同義語ではないのだ。市民は ″殺される″のを待つ無力な羊ではない!「おとなげない」という言葉を使う人もいた。残念ながら「おとなげない」や「民主的に」は、日本ではしばしば事なかれ主義の言い訳に使われる。もし仏教会が行動に出なかったら、京都ホテルは、市が許可したことを楯に工事を強行したにちがいない。そしてこれが前例になって次々に高層ビルが建つきっかけになる。仏教会が京都をともかく、着実な破壊の一歩から救ったのだ。これは素直に評価すべきだ。

 いったい京都はどこへ行こうとしているのか。京都を愛する者は、私以外に日本中に、さらに世界中にいる。パリやフィレンツェを愛する人が世界中にいるように。京都は京都人のものであって、同時に京都人だけのものではない。日本の宝、世界の宝なのだ。京都の美しさは、世界と人類のために守っていかなければならないのだ。他所者のお節介はよしてくれと言う人もいるかもしれない。でもそれも数少ない「世界の都」である京都の宿命だから、お許し願いたい。

 京都の美しさは、お寺やお庭だけ守れば保たれるのではない。街全体の美しさが、京都なのだ。お寺や古い、あるいは落ち着いた町並み、その背景にある自然と四季折々の変化。京都をかこむまわりの山々の姿、雲の動き、鴨川の流れ。何気ない町家の軒先や石畳みや仄かな軒灯に見る洗練と雑味。それらを京都人は目先の利益や目新しさのために捨てようとしていないか。「京都人の悪いとこは、新しもの好きなんですよ」と苦笑いした京都人がいた。「まさか、京都タワーを今日の京都のシンボルなんて言わないでしょうね。あれから京都の堕落が始まったの?」

 私は笑ったけれど、たしかに京都の街を歩くと、新しもの好きを感じる。古い美しい町家をこわして新しいだけで醜いビルを建て、どぎついネオンをつける。静寂や洗練が京都の街なのに。ヨーロッパでやるように外側は古い町家のままに保ち、内部を改造する工夫をすれば、町並みの破壊も防ぎ、京都の美は保たれるのに、″一見新しい″ものに変えてしまうのだ。新しいものはすぐに古くなり、嫌になることを忘れて。クラシックには永遠の生命があるのに。京都に住む人の生活をどうするのか、という議論もある。暮らしは大事だ。でも京都が京都でなくなったら、美しい都の魅力に惹かれてくる観光客は来なくなる。よかれあしかれ京都の生活の糧は「麗しの京都」「世界の都、京都」にある。生活という観点からも、京都をこれ以上破壊してはならない。

 地方の自治体や経済界は「地方の活性化は高層化」だと短絡的にきめたがる。けれどもビルを造ったからといって、地方はイキイキとなりはしない。美しく快適な町づくりが先決だ。古いものを壊すのではなく、古い町並みを整備し、その土地の歴史や物語を再構築し、花や緑を植え、女が住みたくなる環境をつくるのが活性化の元だ。女が住みたい街には、男も戻ってくる。観光客もくる。それがビジネスチャンスをつくる。美しい町なら大学を誘致もできるし、外国から人もくる。ヨーロッパでは花や歴史や町並み、それを囲む自然が観光の目玉になっている。日本はなんと遅れていることか。
 
いま京都に必要なのは、安易な高層化や拙速なコンペではない。市と政財界や専門家だけが事をきめるのでなく、市民の意見が大事だ。そして京都千年の計をたてること。「ビジョン」とか「国際文化歴史都市」なんてわかったような言葉は本質をつかむのに邪魔なだけ。簡単に必要と思われることを挙げると

1 乱開発を食い止めるために法令や条例の整備。保護の網のかけ直し、高さ制限や地域の指定の根本的な検討(いまのままでは不充分、もっと広域に)。倉敷市のような背景保全条例も必要だ。
2 税の優遇。固定資産税、相続税の免除を保全地域に。
3 住む人が快適に暮らせるよう、保全地域の家の改造にヨーロッパ式の方法を。住宅の外側と構造体は昔のままに保ち、内部については設備を充実できるようにする。空き家や建て替えを防ぐため。
4 そのための充分な補助金を自治体と国が出す。
5 市民の意思決定機関への幅広い参加。美しい町のために町の色彩、照明も含めて(例えば自動販売機は街の景観をこわすから木の枠に入れる、高山市のように)
6 自治体の職員の意識改革。京都への愛情無しに町並みは守れない。教育も大事だ。木の家は丈夫で長持ちすると知ること(木造だからもたないという無知と諦めが多い)。一人の熱意が景観破壊を救うこともある。逆に一人の無知で町の破壊が始まることも。
7 町並みは古いだけが価値でないと知ること。昭和初期の建物でも充分美しい。保全の条件にそれが江戸時代である必要はない。
8 必要なら新しい町を市外に設ける。パリのデファング地区のように。文化とビジネスの分離だ。

 最後に強調したいのは、京都は日本の町並み保全、都市の景観を守る上での「関ケ原」であることだ。京都で失敗したら、日本の町の美を守ることはドミノのようにばたばたと崩れるだろう。京都で成功すれば、ほかの危うい町々も勇気づけられる。京都は、古い美しいもの、真に日本的なもののシンボルなのだ。いま日本は開発や国際化といった掛け声で古いものを無秩序にこわし、代わりに無国籍的な、もし醜いとまで言わなくても非人間的な建物で町を覆っている。そんなことはビジネス都市、東京だけでもうたくさんだ。国際化時代だからこそ、日本アイデンティティを大事にしたい。それにはまず、目に見える日本を、私たちの暮らしの元である「町」の姿に保つことが基本じゃないか。

★註記: ご寄稿いただいた後、京都ホテルの態度が急変したことを付記させていただきます。 (編集部)

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