会報50 (平成3年)
仏教と観光の可能性 −聖なる歴史的過去への媒介者−
京都仏教会「宗教と政治検討委員会」委員
追手門学院大学教授 田中滋

<聖と俗との「媒介者」>

 宗教の最も顕著な特徴は、世界を聖と俗という対立する二つの領域に区分することにあると言われる。このことに多くの異論はなかろう。そうであるならば、宗教者というものは、それが僧侶、司祭、牧師、あるいはまた宮仕等とどのように呼ばれるにしろ、聖と俗とを媒介する存在であるということができよう。宗教者は、「媒介者」として位置付けることができる。むろん、仏教者も例外ではなかろう。

 聖と俗とをどのような形で媒介するのかは、聖世界をどう捉えるかがそれぞれの宗教で異なるのと同じように、それぞれの宗教によって異なる。聖なる世界から発せられたメッセージを人々に伝えることをその主な役割とみなしているような宗教もあれば、逆に、俗なる世界に住む人々の願いを聖なる世界へと伝え、その願いが成就されるように働きかけることを主な役割とみなしている宗教もある。まさに様々な形の媒介の仕方があるのである。


<聖世界との媒介と権力>

 この聖と俗との媒介という働きによって、宗教者は様々な形の「パワー」(権力、権威、影響力、あるいは経済力等々)をも同時に手に入れる。

 近代以前の社会では、宗教が必ずと言っていい程に政治権力と結び付いている、あるいは政治権力そのものである。それは、聖なる世界が人々に対する威信の発信源となっているからに他ならない。この宗教と権力との結び付きは、たとえば、日本の中世において権力者がその権力の座から実質的にあるいは形式的に離脱する際に、「出家」という形をとったことにもあらわれている。権力者がその威信を失うことなく身を移すのにまさにふさわしい場所として、仏門が位置付けられていたのである。

 仏門は権力者がその身を置く場所でもあったのである。中世ならぬ現代の政治家である全斗煥韓国前大統領がその政治的スキャンダルに対する追及から逃れるために辞任後に寺に蟄居したことなどは、仏教と政治権力との結び付きの歴史的根深さを思い出させるのに十分な出来事であると言えよう。


<「先進国」中国との媒介者>

 日本の仏教者は、聖と俗との媒介者という役割によってばかりではなく、他の形態の媒介者としての役割によっても日本の歴史に大きなインパクトを与えてきた。その一つが、「先進国」中国と「後進国」日本との媒介者という役割である。端的には、多くの仏教者が中国へと渡り、宗教としての仏教ばかりではなく、文化としての仏教、さらには中国の文化一般や社会制度、あるいはまた様々な先端技術を、日本にもたらすという役割を果したことである。先進国中国と後進国日本との媒介者という役割がどれ程大きかったのかは、日本仏教の有力な宗派の開祖たちの何人もが中国への渡航経験者であり、他の開祖たちもそうした渡航者の影響の下にあったことを考えれば容易に理解できよう。幕末以降つい近年に至るまでヨーロッパやアメリカヘの渡航者が大きな社会的影響力をもった(「洋行」という言葉の響きを思い出していただきたい)のと同じ現象が、「先進国」中国への渡航者の場合にもみられたのである。 聖と俗との媒介者という地位のもつ重要性は無視できるものではないが、この先進国中国と後進国日本との媒介者という役割が、日本の仏教者の権威や権力の大きな源泉となり、優秀な人材の仏教界へのリクルートを容易にし、延いては仏教思想の充実をもたらし続ける重要な要因となったと言えるのではなかろうか。


<支配者と被支配者との媒介者一幕藩体制>

 しかし、歴史的に見ると、ヨーロッパの世界史への登場とキリスト教の日本における影響力の拡大とが、仏教という宗教の社会的位置付けに大きな変化をもたらすことになる。江戸幕府による「鎖国」である。この鎖国は、仏教の先進世界への媒介者という役割の終焉と、檀家制度の下における寺の下級行政機関化とをもたらした。江戸幕府は、檀家制度によって、一方ではキリスト教を排除し、他方では寺をとおして庶民を支配するということをおこなった。言い換えれば、幕府という当時の政府は、一方ではキリスト教を排除し、他方では仏教を統制・管理すると同時に保護するというかたちの、宗教への行政的介入をおこなったわけである。仏教者は、幕府という支配者と庶民という被支配者との媒介者へとその役割を移行させられたわけである。

 ここでの媒介者としての仏教者の権威と権力は、当然ではあるが先進国中国と後進国日本との媒介者としての権威や権力と異質なものとならざるを得ない。すなわち、それは、幕府による庶民支配のための下級・末端の行政機関としての権威と権力に過ぎないと言えよう。そして、これが、幕府崩壊後、明治初年の神仏分離政策と同時に起こった廃仏毀釈の民衆レベルでの過激化をもたらす一因となったとも言えよう。


<幕藩体制の崩壊 − パトロンの喪失>

 幕藩体制の崩壊は、日本の仏教にとってまさに余りにも大きなインパクトとなった。江戸時代、寺院は下級行政機関化していたものの、一方では、徳川家や諸大名などといった世俗的権力者にとっての聖世界への媒介者としての地位をあいかわらず確保していた。すなわち、徳川家や諸大名は、寺院(菩提寺)を聖世界への媒介者とするという点において、寺院にとってのクライアント(帰依者)であり、またそれゆえに寺院の経済上でのパトロン(庇護者)でもあったわけである。その意味において、幕藩体制の崩壊すなわち徳川家や諸大名の権力失墜は、寺院にとって経済上のパトロン(庇護者)を喪失するということを意味した。また、新政府による寺領の没収(上知令)は、寺院の経済基盤に大打撃を与えるものとなった。

 天皇も、江戸時代には、諸大名がそうであったのと同じく、寺院のクライアント(帰依者)でもあり、パトロン −経済的というよりはむしろ精神的なパトロン(庇護者)−でもあった。しかし、その天皇も、新時代の天皇制国家の政治的中心とはなったが、それは神道に取り込まれるという形においてであり、仏教とは公的な関係を取り結ぶ存在ではなくなった。

 このようにして、明治以降、仏教は政治的中心から急速に遠ざかり、かつ経済的基盤を掘り崩されていくことになる。


<戦後の変化 − 新興宗教との競合>

 戦後に起こった仏教にとって重要な社会変化は、一つには明治以降の変化の加速化という側面と、二つには人々の意識の変化と政治体制の変化とによる仏教にとっての新たな環境の発生という側面とである。前者の変化の中心となったのは、農地解放による変化である。農地解放は、直接的には寺院の所有地の喪失というかたちで、間接的にはクライアントでありパトロンであった地方名望家層の没落というかたちで、寺院経済の逼迫化を招いた。

 後者の変化の中心にあるのが、科学文明の全般化等による聖世界の存在そのものに対する人々の確信の減退であり、その多様化である。すなわち、人々の意識において聖世界の存在の「現実感(リアリティ)」が希薄になり、またその聖世界がどのようなものであるのかについての考え方が多様化するという状況が生じたのである。人々の聖世界に対するこうした考え方の多様性を引き受けていったのが、「新宗教」あるいは「新々宗教」と呼ばれる様々な新興宗教団体群である。それらの新興宗教団体は、新憲法が信教の自由を保証し、布教の自由が確保されたことによって、戦後急速にその勢力を伸ばしていくことになる。

 仏教は、戦前の政治体制の下において政治的中心から引き離されていたが、神道やキリスト教と並んで政府によって公認されていた。その意味において、仏教はやはり保護されていたと言えよう。戦後の仏教は、そうした保護を受けることなく、新興宗教や他の宗教と競争しながら信者(クライアント)を維持・獲得していかねばならなくなった。人々にとっての聖世界への実質上独占的な媒介者という地位を喪失したわけである。仏教は、何百年にもわたって統制・管理されつつも政治的な保護を受けてきた。その宗教が突然その保護の手から離れて自らの意志とカで行動していくことを余儀なくされたのである。それがいかに困難なことであるのかは、容易に想像できるであろう。


<「葬式仏教」と「観光寺院」>

 幕藩体制の崩壊に伴って、仏教は、諸大名のようなパトロン(庇護者)となりうるだけの政治的・経済的な力をもったクライアント(帰依者)を失った。いわば政治的・社会的エリートたちにとっての聖世界への媒介者としての地位を失ったわけである。それが、戦後は、庶民にとっての聖世界への媒介者という地位すら失いかけているのである。

 このような危機的状況に追い込まれながら有効な対応の取れてこなかつた仏教に対して、「葬式仏教」あるいは「観光寺院」といったレッテルが人々によって貼られていた。そのレッテルの意味するところは、「葬式仏教」の場合なら、葬式や法事のときにのみ必要とされ、通り一遍の儀式をこなすだけで多額の報酬を得る僧侶たち、あるいは「観光寺院」の場合なら、たまたま所有していた観光資源によって濡れ手に粟で収入が得られる寺院といったまことに芳しくないものである。ここで人が仏教を見る視点は、金銭的なそれであり、決して宗教的なそれはない。


<観光寺院の可能性 − 聖なる歴史的過去への媒介者>

 世間の人々が観光寺院に対してこうしたイメージを抱いていることは確かであるが、一方では、観光寺院が世間の人々を引き付ける特別な魅力、文化財のたんなる鑑賞行為によって得られる満足を超えた魅力をもっていることも事実である。

 観光寺院というものをあらためて定義するならば、それは次のようなものとなろう。すなわち、観光寺院とは、多くの場合中世あるいはそれ以前からの歴史をもち、権力者たちによって建立されまた護持され、それゆえ芸術性の高いあるいは文化財としての価値の高い仏像、堂塔伽藍、庭園、景観等々をもつか、あるいはまた有名・無名の様々な人々がそこを舞台として活動したという歴史をもつ寺院であり、なおかつ、そこを訪れる参拝者(拝観者)が収める拝観料を主たる収入源として成り立っている寺院であると。

 観光寺院を訪れる人々は、しかしながら、芸術性の高いあるいは文化財として価値の高い仏像、堂塔伽藍、庭園、景観等々といった個々のモノだけを観賞しているわけではない。ここで、これらのモノが直接的に人々の心のなかに宗教的な何かを呼び覚ましていると考えることもできよう。しかし、宗教心の覚醒には、それらのモノ(仏像、堂塔伽藍、庭園、景観等々)やそこを舞台として過去に展開されたコト(歴史的物語)が一つの全体となって固有の「歴史的過去」を再構成し、そこへと人々が誘われるという契機、これが介在していると考えられる。

 再構成されるところの、寺院を中心舞台とするその「歴史的過去」は、宗教が日常の中で確実に大きな役割を果し、人々の意識の中に聖世界が確固とした「現実感(リアリティ)」を伴って存在していた空間である。そうした歴史的過去にいわばタイム・スリップ(時間旅行)することによって、観光寺院を訪れる人々は、たとえば無常感といった宗教的な何かに触れることができると言えるのではないではなかろうか。

 観光寺院と呼ばれる空間は、人々をそうした歴史的過去へとタイム・スリップさせてくれる空間、言い換えるならば、「聖なる歴史的過去への媒介」という働きをする空間として位置付けることができよう。こうした位置付けは、日本の高度経済成長という貨幣のもつ力が極大化していく過程にあったとき、「歴史ブーム」が人々の間で広範囲に起こり、それと同時に「京都ブーム」という現象がみられたことを、うまく説明するものであると言えよう。

 また、こうした位置付けは、寺院の観光化というものを主に経済的側面から、さらに言えば金銭的側面から捉えてきたことに対して反省を促すものとなろう。すなわち、現代に生きる人々がその日々の生活に飽き足らず、聖なる何かを歴史に求めて観光寺院という空間を訪れたことが第一義的に重要なのであって、金銭的な問題は第二義的なものに過ぎないということである。観光寺院への参拝をたとえば文化財の観賞といった非宗教的な行為としてみなしてしまうがゆえに、金銭的な問題がクローズ・アップされてくるのである。また、観光寺院を訪れる人々が自覚的に聖なる何かを求めていたかどうかという問題もやはり第二義的なものに過ぎないと言えよう。

 このように考えるならば、観光寺院と呼ばれる寺院が「聖なる世界への媒介者」という宗教本来の役割を果しうる一つの可能性として、「聖なる歴史的過去への媒介者」という役割を位置付けることができると言えるのではなかろうか、しかし、これは、なにも観光寺院に限られたことではなく、一般の寺院にも当て嵌まることであるといえよう。観光寺院にしろ、一般の寺院にしろ、それぞれの寺院はもっとみずからの歴史的アイデンティティーを探り、それを人々に提示するということをより積極的におこなってもよいのではなかろうか。

 たとえば、鹿苑寺(金閣寺)、泉涌寺、そして三千院と続いた『音舞台』は、それぞれの寺院の歴史的物語を紐解き、人々にそれを提示し、そして新たな物語を造っていく営みとして位置付けることができよう。すなわち、寺院を舞台として新たな物語を演じ、人々を聖世界に対する確固とした現実感(リアリティ)が存在した歴史的過去へと誘うという試みとして位置付けることができよう。

 寺院が歴史的過去への媒介者となることによって聖世界への媒介者ともなりうるというのは、余りにも消極的な態度であるとの批判を一部からは受けるかもしれない。しかし、現代のように人々の聖世界に対する現実感が希薄化し、多様化した時代にあっては、聖世界に対する確固とした現実感が存在した時代へと誘うということが、宗教的な何かに触れるための一つの重要な窓口となると考えるべきなのではなかろうか。そして、それは、仏教の伝統的な布教形態であるところの、必ずしも言葉(コトバ)に頼ることなく全体的なもので人々の心を揺さぶるという布教形態ともよく合致するものであると言えよう。


<景観問題の意味>

 ところで、それぞれの寺院空間がそれぞれに歴史的過去へのタイム・スリップするための空間となる限界がある。個々の寺院だけではなく、集合体としての寺院が、さらには、それらを取り巻く環境や地域社会全体がそうした空間となることが望ましいと言えよう。そういった意味において、寺院を取り巻く景観や自然観境の保全と整備、さらにはその延長線上にある地域社会のアイデンティティの確立は、仏教者にとって現在の重要な任務となっていると言えるのではなかろうか。

 これを寺院のエゴイズムであると批判することも当然可能であろう。
たとえば、開発を志向する人々は、そうした批判をおこなうであろう。しかし、仏教者はそうした批判を投げかける人々とも対話を行うことによって、地域社会との関わりをもち、そのアイデンティティの策定作業の参画者となり、またみずから宗教者としての方向性をもより鮮明にしていくことができるようになるのではなかろうか。


<おわりに>

 古都税問題や消費税問題にしろ、この度の景観問題にしろ、現在の仏教は様々な苦悩や問題を抱えている。そして、これらを仏教の衰退の証とみることもできよう。しかし、現在の仏教は、まさに何百年にわたる行政による統制・管理そして保護という状況の下に沈黙を続け、戦後よようやくにしてその眠りから目覚めようとしているところの宗教であるとみなすこともできよう。すなわち、現在様々な問題に出会い苦しんでいるのは、まさに仏教が、その眠りから十分に目覚めていないからであると考えることもできよう。戦後たかだか数十年、仏教は今まさに再生の緒に就いたと考えることもできるのである。

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