平成3年8月1日 発行書籍より
京都の景観保護と将来の町づくりについて
京都仏教会編
目次・はじめに │  │  │  │  │ 五 

五、むすびにかえて 〜寺院の論理〜


 京都の寺院は遷都以来京都の歴史において、多くの宗教的・文化的遺産を生み出し、多くの人々をひきつける京都の魅力を創り、その発展に貢献してきたという自負があります。また京都の寺院はその宗教的原理からしても、寺院の周りの庭園、山林などの環境を寺院の生命と言っていいほどの重要な役割を果すものとして大切にしてきました。そのため金閣寺を始め経済的に可能な寺院は、その周りの山林や土地を買いとって、環境保全に努力してきました。最近の例では、清水寺が環境保全のために近隣の土地を買い取りました。しかしこのようなことは土地の価格の上昇等により益々困難になり、寺院の経済力からしてもとうてい続くものではありません。京都の寺院にとって、京都の景観問題は重要な問題なのです。しかしこのことは、じいんばかりではなく、京都市民にとっても重要な問題の筈です。京都の寺院と環境が、年間4000万人もの観光客を呼び、 2兆5000億円もの売上を生み出し、京都の経済に大きな貢献をしているのですから、このハードウェア的資産を守ることは重要な問題だと思います。京都に超高層ビルと言う、そぐわないものを建てるという考えの根本には、年間4000万人もの観光客が来るということを異常だと考えず、当たり前だと思ってしまっているということがあるのです。つまり非日常的なことを日常的なことととらえてしまう感覚になっているのです。この4000万人の観光客も京都の貯金なのです。出稼ぎ資本に食い荒らされてはなりません。この4000万人の観光客に対する感謝の気持ちを忘れると「他府県のマイカー観光拒否宣言」や「古都税」になるのです。我が家に来てくれた客人に対して人頭税をかけたり、車で来てくれた人を駐車場に入れない等は、まさに無礼そのものではないでしょうか。それも東京志向の人々が考えることです。京都の未来は京都市民が決めていくものです。京都に高層ビルが建ち並べば京都が今まで以上に発展し、多くの魅力を生み出すというのであれば、それは多いに議論する価値があるでしょう。しかし、なぜ高層ビルが建ち並べば京都が発展するかを今まで誰も理論伊達手説明した人はいません。ただ単に高層ビルすなわち近代化イコール京都の発展と短絡的に考えているのか、不動産投資の利益のために主張しているにすぎません。京都仏教会は、全力を挙げて阻止することが自らの使命と考えています。
 京都の町は今、転機にあります。私たち京都市民は、真剣にこの問題に取り組まなければ、自らの財産を破壊することになるのです。若し高層化を認めるならば、大学と市庁舎そのほか公共的なものだけに限ります。そしてそれらなら寺社と並ぶ新たなランドマークにしてもよいでしょう。
 最後に寺院としての理論を述べさせていただきます。古都税闘争の時の最大の争点は、寺に来られる信者の方に対して「税の取立人」になるかどうかということでした。寺院や僧侶が「税の取立人」になることが、世俗の方と同様に当り前になれば精神まで商人の方々と同じになってしまいます。すると、思考方法も商人の方々と同じになり、いかにして金儲けをするかという事を考えてしまいます。これは正に僧侶としては死を意味します。例えば、ある市中寺院は寺を高層化し、宗教としての機能を最上階に集め、その下をテナントとして飲食店などに貸している事例等は僧侶を廃業して不動産業者に転業してしまった人と言えます。このような僧侶にとって「税の取立人」になることは大した苦痛ではないかもしれませんが、普通の僧侶には、官が「税の取立人」になれと強制すれば、いつかそれが日常化してしまうことを恐れて断固として拒絶します。その代わり、益になるからといって何でもするわけではありません。むしろ利することを避けて、寺院を守っているのです。僧侶は京都の町に対しても大きな責任と義務を持っていると考えております。故に古都税同様、今度の高層ビルの問題のようなことは京都市民や京都の将来に大きな禍根を残すと考えられることに対しては、山門を出て、市民の方々と一緒に活動しなければならないと考えます。


京都仏教会

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