発行書籍より
古都税反対運動の軌跡と展望
政治と宗教の間で
京都仏教会編
第一法規刊
第5章 「解説」 (P218〜P230)より抜粋

第八部 第三次拝観停止(昭和六十一年七月〜十二月)

古都税実施から一年がたったが、その税収入は当初予定額の四分の一にも満たなかった京都市は、古都税納入を求め、閉門六ケ寺に対し催告書を送付した。仏教会はこれを拒否し、税額決定がなされた場合は八・八和解に至る全ての経過を公表することを表明するに及んだ。しかし京都市は、七月二十六日、閉門六ケ寺に対し、昭和六十年八月九日から十二月四日までの開門期間分について総額約一億円の税額を決定し、一ケ月後の二十七日までに納入のない場合は、差押えの手続きを取ることを明らかにした。
三度目の拝観停止により、深刻化した古都税問題の解決に無策の京都市に対し、八月四日、銀閣寺門前業者で組織する土産品振興会と大文字保存会の約四十人が、要望書を持って市役所を訪れ、市長に面会を求めて秘書室に座り込み、大文字送り火も一部で協力しないことを示唆したため、市長は初めて銀閣寺門前業者らと面会した。また「古都税を考える市民の会」は三十日会合を開き、市長リコール対策本部の設置を決め、リコール請求のために一万人の協力者を募集することを発表した。(同会は折田泰宏弁護士、長尾憲彰常寂光寺住職ら「京都市民のネットワーク」準備会のメンバ−が中心となり古都税問題に関し、京都市及ぴ仏教会を批判し、市民が立ち上がるべきであるとして結成された団体である。)
その後京都市は、税額決定に続いて督促状を送付し、差押えも行う方針を表明したため、仏教会は九月十七日、寄付金額を定めた念書を公表すると共に、京都地検に証拠品として提出し、八・八和解にいたる交渉経過を録音したテープの存在も初めて明らかにした。この念書の公表に対し、斡旋者である大宮氏が「念書は仏教会に渡す直前に市長に説明した。八・八約定書についても試案ではなかった」と証言しているにも拘らず、今川市長は八月十七日市議会において、「念書はまったく知らない」と答弁し、税の円滑な徴収を繰り返すだけであった。
(八・八以後、話し合いにより解決の糸口をつかもうとする西山氏の努力は、都合の悪い相手とは会うなとする市議会からの圧力により、全てつぷされてきた。今や仏教会代理人としての西山氏と、市長・議会との公式会談の道は完全に断たれていた。)
拝観停止六ケ寺は、ここに至っても今川市長が嘘を続ける以上、早急に八・八和解に至る経過の全てを明らかにする必要があり、テープの公表を西山氏に求めていた。しかしこれを公表した場合、市長告発に対し検察庁の捜査が進展するきっかけにはなるが、市長不起訴の判断を下す材料になる可能性もあり、公表の時期については慎重を要した。仏教会は昭和六十二年当初の市議会及び四月の統一地方選挙をも射程にいれた戦略の中で、テープ公開の時期を検討しつつ、テープの編集作業に入った。
秋の観光シーズンを迎えても、例年のような賑わいはなく、京都市、仏教会双方の表立った動きもみられず、古都税を考える市民の会のリコール運動も盛り上がりを欠いていた。
こうした中で、京都大学文学部などで社会学を専攻している教員、院生、学生らの研究グループ「古都税問題研究会」(代表・田中滋追手門学院大学文学部講師)による市民意識調査が、十二月十二日付朝日新聞紙上に発表された。調査期間は昭和六十一年九月下句から十月半ばにかけての約二十日間で、対象は住民票から無作為に抽出された、二十歳以上七十歳末満の京都市民七百人、回収率は六十六・九パーセントであった。調査結果では、この条例を「そのまま施行する」と言う意見は二十二・六パーセントしかなく、「修正する」が四十四・ニパーセント、「廃案にする」が二十七・九パーセントと現状の変更を望む意見が七割を占めた。
また、拝観停止に対しては「許されない」が六十三・ニパーセント、古都税問題をこじらせた責任については、「京都市側にあるしとしたのが二十五・ニパーセント、「寺院側にある」としたのが二十二・0パーセント、「同じくらい」が四十一・九パーセントであった。
現代社会において、世論やマスコミの持つ影響力は無視できるものではないが、宗教の基本理念に係わるような問題が生じた時、僧侶は自ら判断すべきであり、マスコミや世論によって左右されてはならない。
よって古都税問題に、僧侶は政治の場にひきずり出され、宗教者としての態度が問われることになった。山門を出た僧侶の抵抗運動が、しばしば市民にとっては奇異に映り、そのことが偏見や誤解を生む要因となり、さまざまな批判の対象となった。このような状況と仏教会の基本姿勢からすれば、市民の七割が条例の修正、廃案を求めたことは、四年にわたり仏教会が基本姿勢を貫いたことの成果であり、市民にとって、条例の是非は理解を超えたものであるとしても、市と寺院が対立を続けることは、物心両面において影響が大きいと危惧した結果であると見ることができる。また、市民の六割が拝観停止に反対したことは市民感情から見ればむしろ低い数値であると思われる。また、拝観停止による経済的影響の側面から見れば、京都における寺院の位置をはかることができる。紛争の責任問題について、喧嘩両成敗としたのは、対立の発端からその後の経過について、市民に正確な情報が伝わらなかったからであり、現象面のみにとらわれたマスコミの報道姿勢にも原因がある。

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