発行書籍より
古都税反対運動の軌跡と展望
政治と宗教の間で
京都仏教会編
第一法規刊
第5章 「解説」 (P218〜P230)より抜粋

第四部 西山氏と反対運動の基本理念の構築(昭和六十年三月〜四月)

昭和五十八年夏、世論やマスコミの、寺院に対する様々な非難や中傷が渦巻く中、市内寺院の移転問題に絡み、住職が寺の売却金を私物化し、信者が仏教会に解決策を相談にくるという事件が起こった。事務局は、これに対応せざるを得ないと判断し、仏教会の事務局長であった鵜飼泉道師と安井攸爾師(蓮華寺副住職)は、この種の問題に詳しい僧侶の紹介で、八月頃、三協西山社長西山正彦氏にはじめて面会した。西山氏は土地問題に対して適切な助言を行ったが、古都税間題にも深い関心を示し、問題の原因は明治以後衰退を続ける既成仏教の体質にある、この反対運動を為し遂げることの難しさを指摘した。
西山氏が今後の反対運動に、少なからず助けになると判断した鵜飼師と安井師は、その後、度々個人的に相談を持ち掛けるようになり、松本理事長にも引き合わせ、松本師が協力を要請したところ西山氏はこれを快諾した。ただし西山氏が古都税問題に深く関わりはじめたのは昭和六十年に入ってからであった。当時西山氏の存在は会長、一部理事など数名の幹部が知るのみで、西山氏との接触は鵜飼師、安井師、佐分宗順師(当時銀閣寺執事)大西真興師(清水寺執事長)が当たった。
西山氏とこの四人の会議は、清水寺門前会の田中博武氏を加え頻繁に持たれるようになり、僧侶の在り方、政治と宗教の関係、運動論、組織論等の激しい議論が戦かわされ、深夜に及ぶ話し合いが続けられるようになった。西山氏はこの会合の中で、(1)反対運動を貫くためには信頼のおける僧侶の実働部隊が必要である、(2)京都市が正規軍としたならば仏教会がこれに対抗するためにはゲリラ作戦以外に無い、(3)この会合は公けにしないこと、したがつてマスコミとの個々の接点は断つこと、(4)この会合で得た結論は松本理事長以下必要とする幹部に進言し、理事会、対象寺院会議に諮ること、等の必要性を説いた。そこで大西氏の推挙により清滝智弘師(広隆寺貫主)をメンバーに加え、この七人によって運動の基本的な理念や、具体案が練られた。特にこの時期、相国寺の有馬頼底(金閣寺責任役員)、荒木元悦(銀閣寺執事長)両師の信頼と支持を得たことが、七人の励みとなり、反対運動の事実上の核を形成してゆくのである。
千五百年の歴史と、その中で培われた高い文化性を保ってきた仏教が、近代百年の歴史しか持たない現体制によって、その存在の基盤が簡単に揺るがされようとしている。このことに対し、その担い手である僧侶が、抵抗どころかその認識すら持ち得ず、古都税を追認し、寺院が行政の下請けとなって税の取り立てを行うことは、自らの宗教行為を否定し、仏教の再生の芽を完全に摘み取ってしまい、将来に大きな禍根を残すことになる。
西山氏と六人は、この反対運動が既成仏教の衰退の方向に軌道修正を加える一つの契機となるであろうと考えた。
具体的な抵抗の方法としての徴税拒否は、差押えなどによって税の徴収が確実に行われることになり効力がなく、第三機関による徴税も、自分の手を汚さないだけで結果は同じことになる。また無料拝観や志納金方式は、京都市にとって歓迎すべきことで、紛争は長引き、従業員を多数抱える寺院にとっては長期間、もちこたえることは不可能である。裁判闘争も反対運動の一側面にはなり得ても、時間がかかり、根本的解決は難しいであろう。仏教会が打ち出した拝観停止こそ、古都税に抵抗できる唯一の方法であり、たとえ世論の批判を正面から浴ぴたとしても、仏教の根幹が揺るがされている状況下においては、一時的閉門も止むを得ない。しかし、何の解決策もない、無闇な拝観停止は避けるべきであり、短期間で最大の効果を得なければならず、目前に控えた市長選挙を目安として具体的戦略が練られた。
拝観停止の混乱の中で市長選挙を迎えたなら、古都税間題は選挙の争点となることは避けられず、強行実施を訴える今川氏は苦しい選挙戦を強いられることになり、古都税反対を打ち出す共産党の市長を誕生させる可能性もある。しかし、たとえ共産党の市長が誕生したとしても、議会において与党の了解を得るのは難しく、古都税間題の解決は長引くであろう。やはりこの問題は、今川現市長が解決するほかはないと仏教会は考えた。自民党をはじめ与党勢力が、今川氏を市長候補に擁立するとは限らなかったが、今川氏以外の有力な候補を擁立するためには、古都税問題の解決が前提であった。仏教会にとって早すぎる解決は、今川氏以外の候補の擁立を可能にすることとなる。その場合は実質的に、和解交渉の相手を失い、選挙後の見通しが立たなくなってしまう。また選挙後の解決を待っていたのでは、前述のように今川氏が市長に当選する可能性が危ぶまれる状況であった。
西山氏は拝観停止によって今川市長を追い込み、市長選挙直前に一気に解決を計る方針を打ち出し、次のような解決策を提案した。
「古都税対象寺院は十年間拝観停止を続け、これに変わり、仏教会が古都税対象寺院に依頼して拝観業務を行う。その収入の一部は寄付金
として京都市に収め、一部は仏教会の運営費に当てる、残りは各対象寺院に寄付金として還元する」寺院に変わって仏教会が拝観業務を行うこの方式は、古文協が春秋二回、未公開寺院に依頼して拝観業務を行っているのをヒントに、西山氏が考え出したものであった。この方法により、古都税対象寺院は徴税を行う必要はなく、仏教会は徴税義務者に指定されていないため、京都市に収めるお金は名実ともに寄付金となる。京都市にとっても条例を撤廃する必要はなく、寄付金としての収入は得られる。仏教会にとって、これ以外の解決の方法は考えられなかった。そしてこの案を実行するためには、仏教会を財団法人化し、責任ある組織にする必要があった。
仏教会財団法人化の方針は、すでに昭和五十九年三月に打ち出されてたが、そのための基金が集まらず、設立準備委員会は何等成果を上げない
ままであったので、清水寺をはじめ有力寺院に基金出資の依頼を始めた。
この財団法人の役員は、出資した寺院の代表者が、理事等として責任を負わなければならず、従来の仏教会の名誉職的役員ではなく、責任と実行力のある役員でなければならなかった。そこで仏教会は、理事長以下幹部の了解を得て、昭和六十年三月二十七日、京都ロイヤルホテルにおいて京都府・京都市両仏教会の合同役員会を開き、両仏教会を統合して、京都仏教会と称し、四月一日から発足することを決め、次のような新役員を決定した。
(以下、統合後の組織も仏教会と記す)

[会長]東伏見慈洽・青蓮院門主
[理事長]松本大圓・清水寺貫主
[常務理事]有馬頼底・鹿苑寺(金閣寺)責任役員、大島亮準・三千院執事長、清滝智弘・広隆寺貫主
[理事]荒木元悦・慈照寺(銀間寺)執事長、大西真興・清水寺執事長、片山宥雄・大覚寺宗務総長、多紀顛信・妙法院執事長、田原周仁・天竜寺派宗務総長、長尾憲彰・常寂光寺住職、京都市内の支部長会代表一人、府内の単位仏教会代表
[事務局長]鵜飼泉道
[文観税(古都税)対策委員会]委員長松本大圓理事長、副委員長大島亮準常務理事・田原周仁理事

仏教会は、自治省の認可がおりれば拝観停止に入るとしていたこれまでの方針を、市長選挙告示日から拝観停止に入るという方針に変え、三月十七日、これを発表し、市長選に照準を合わせて、拝観停止の準備を始め一方、西山氏は水面下において、彼の人脈によって今川市長との接触を計画した。この水面下の交渉には西山氏と大西真興師が当り、組織固めと対象寺院への説得は、清滝師・安井師・佐分師・大西師が当ることにした。
また西山氏の存在や、この会議で話し合ったことが表面化すれば、この計画の遂行は不可能になるため、絶対的な秘密の厳守と、報道機関との接触を避けることが必要であった。報道機関への対応は、従来通り鵜飼事務局長が当ることにしたが、鵜飼氏は個人的にも報道機関との接触が頻繁であったため、このメンバーには参加しないことを決めた。
(この時期、古文協の理事長解任をめぐって、古都税反対寺院から出されていた藤田理事長の再任無効仮処分申請に対し、大阪高裁は三月二十三日これを認める決定を下した。藤田氏は理事長を辞任し、二年にわたる古文協の紛争は終結した。)
三月に入っても自治省の認可がおりず、京都市は三度、条例の四月実施を見送らざるを得なかった。斡旋者会議の仲介も成果を上げず、藤尾自民党政調会長が事態打開のため清水寺に赴いたが、松本氏は不在という理由で面会を断った。ついに斡旋者会議は、四月三日第六回目の会合で、「今後、役立つことがあれば何時でも微力を尽くす」としながらも事実上斡旋を打ち切ることを決めた。自治省は斡旋の打ち切りにより、四月十日「条例実施は許可日後ニケ月の停止期間を付ける」という異例の条件付きでこれを認可した。京都市はこれを受け、停止期間の切れる六月十日に実施する方針を明らかにした。

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