発行書籍より
古都税反対運動の軌跡と展望
政治と宗教の間で
京都仏教会編
第一法規刊
第5章 「解説」 (P218〜P230)より抜粋

第一部 発端(昭和五十七年三月十二月)

所謂古都税問題は昭和五十七年三月、京都市財務消防委員会で二六億円の赤字補填対策として、公明党の提案である文化観光税(以下文観税と略す)の復活が論議されることに始まる。そこでの論議は「社寺との覚書もあり早急に復活するのはむづがしい」とする意見もあったが、七月には同委員会で理財局長が文観税導入を示唆し、古文化保存協会(以下古文協という)を通じて有力観光寺院の説得工作に乗り出した。(古文協は昭和三九年の文化観光税の終結にともない、京都市が文観税収入のうちから拠出した二億円を基金として、文化財を保有する社寺が文化財保護の目的で昭和四〇年に設立した財団法人で、理事として府下の有力社寺が名を連ね、京都市からは文観局長が理事、理財局長が監事として参加している。また、この協会の有力寺院である清水寺、金閣寺、銀閣寺、妙法院、西芳寺、竜安寺の六ケ寺は協会内部に六親会という親睦会を作っていた)。
京都市は密かに六親会のメンバーを市内料亭に招き、席上、原勝治理財局長が文化観光税構想の説明をし、「拝観者数二万人以上の三〜四十社寺を対象に、一人当たり五十円を拝観料に上乗せして徴収する。」という具体的内容を示し協力を求めた。清水寺は協力できないとして席を立ったが、他の寺院からは強い反対意見は出ず、同月開かれた古文協の理事会では藤田价浩古文協理事長(西芳寺住職)が文化観光税協力を訴え、つづいて柳原埋財局次長がその構想を説明した。大島亮準三千院執事長は昭和三十九年に高山京都市長と交わした「今後この種の税はいかなる名目においても新設しない」という「覚書」があるとして、この新税に反対の意思を表明したが、これに対し、理財局は昭和三十九年当時から二十年近く経過しており、その間、経済的・社会的変動があり情勢は変わっている、「覚書」の法的拘束力はないと反論した。京都市は古文協傘下の有力寺院の同意を取り付けることによって、あくまで文観税実施を前提に説得を続ける構えであった。事態を憂慮した大島師は京都市仏教会(以下仏教会と略す)の小林忍戒理事長に会い、仏教会として文観税反対運動に取り組むよう要請するが、理事長は態度を保留した(京都府・市仏教会は戦前に形成され、国家による宗教界統制の一翼を担った国策的組織であったが、戦後は寺院間の交流をはかる任意の親睦団体として存続し、彼岸法要やお花祭り等を行ってきた。昭和五十七年の会員数は約千五百ケ寺で、一ケ寺年間二千円の会費と寄附金などを含め、年間約六百万円の予算で運営されており、京都の各本山を含め多くの寺院が会員となっていたが、各寺院の会員としての自覚は薄く、社会問題に対応できるような組織力を持つ団体ではなかった)。
しかし大島師の再度の強い要請で、仏教会は八月二日聖護院で緊急会議を開いた。会議には仏教会役員並ぴに有力寺院の住職、執事長ら約三十人が出席し「各宗派の本山が集まる京都でこの税を許すことは、全国的にも大きな影響を与える。」として文観税に反対する方針をきめた。そして京都市との交渉の窓口を一本化するため、文観税対策委員会を発足させ、委員長に小林忍戒理事長、副委員長に田原周仁天龍寺派宗務総長、大島亮準三千院執事長、他四名の委員を選出した。そして八月十九日に予定されている京都市の文観税に関する説明会を控え、八月十七日第一回文観税対策委員会を開き、京都市に対し(1)文観税復活の根拠を示せ、(2)「覚書」に対する市の見解を示せ、(3)信教の自由に関して憲法第二十条に対する見解を示せ、(4)市当局の観光行政の姿勢についての考えを示せ、(5)京都市仏教会に対する考えを示せ、という五項目にわたる公開質問状を提出した。
八月十九日京都市は京都ロイヤルホテルに対象寺院を集め、初めて文観税に関する説明会を開いたが、同時刻今川市長は記者会見で、昭和五十八年四月実施を表明していた。説明会の際、これを知った寺院側は昭和三十九年の「覚書」を示し、今回の条例構想が約束違反であると激しく市を非難したため、会議は紛糾し、本題に入らないまま閉会する結果となった。
話し合いをもつ一方で、強行実施を打ち出すという京都市のやり方が、寺院側の行政に対する不信と反発をつのらせる原因となったわけである。
この説明会の後、仏教会は緊急対策委員会を開き、京都市が課税対象に予定している拝観寺院の賛同を得て、交渉の窓口を仏教会に一本化するよう要請することを決め、八月二十五日拝観寺院百三十八ケ寺に呼びかけ、対策協議会が開かれるが、九十ケ寺が出席(うち四十八ケ寺が委任状を提出)し、文観税反対を決議して、京都市に決議文を提出した。またこの日までに仏教会は、対象寺院三十七ケ寺中三十一ケ寺から「京都市との折衝の窓口を京都市仏教会にする」という委任状を受理した。
九月七日午前十一時よりホテルフジタで京都市と仏教会の初めての公式会議が開かれるが、話し合いは「覚書」などをめぐり寺側が猛反発し、仏教会が文観税復活の構想撤回要求書を市長に提出して、一方的に閉会を宣言する形で終わる。これまで“仏教会は相手にせず”と言う態度をとってきた京都市は反対運動が拡がる中で仏教会を無視しつづけることはむずかしくなり、水面下では話し合いによる説得をもくろんだこともあって、十一日に仏教会と理財局との水面下の交渉が始まる。これ以後仏教会は公式会談では京都市と対立を続けながらも、裏面では理財局との交渉を進めることで、京都市が条例の強行実施に踏み切ることに歯止めをかけようとしていたのである。
この一連の話し合いの中で、京都市は条例構想の提案理由として、「市内に点在する寺院の固定資産非課税分は約十億円あり、都市開発において寺院の存在が経済的効率を著しく低下させている」ことを上げ、寺院側の協力をせまったが、仏教会は「経済的効率で宗教施設の価値を計るのは歴史への冒涜である。若し経済的効率で寺の存在を論じるなら、京都の寺院は年間三千八百万人の参拝者を受け入れその経済的効果は一兆六千億におよぴ、十分にその役割を果たしている。寺院は行政に協力することを惜しまないが、行政の支配下におかれることは絶対に承服できない。」と反論し、寄付金をもって税にかえることを提案するが、京都市は十年間確実に寄付金が納入される保証がないという理由でこの提案を拒否した。
この間、古文協(藤田价浩理事長始め銀閣寺、竜安寺、妙法院の代表らが出席)と仏教会(小林忍戒理事長、大島亮準師が出席)の会談が九月二日、市内料亭で開かれた(藤田价浩師は三十一年の文観税の時には反対運動の急先鋒であったが、今回の文観税に対しては最初から賛成を表明し、古文協として市に協力する意向であった)。大島師はすでに藤田師に新税賛成の理由を問いただしていたが、その答えは「市は寺側に対し十五パーセントの見返りを考えており、こちらにとっては有利なものである。」というもので、藤田師の利益誘導的発想は大島師らの反発を買った。この会合でも両者は基本的な意見の食い違いを見せたが、お互いに宗教者として、同じ土俵の上で話し合いを続けるということで合意がなされた。
しかしその後古文協は、理事会・評議会の正式の合意もなく、会報を以て文観税賛成を表明、藤田理事長はじめ数名の理事が市長を訪ね協力を申し出たため、古文協会員をはじめ評議員、一部理事らの反発を買い、九月二十二日古文協理事長解任のための理事会・評議会開催の要求書が提出されるが、藤田理事長はこれを拒否し、三十日独自に臨時理事会を招集した(臨時理事会では反対派理事、評議員から理事長解任のための役員会開催要求が出されるが、理事長はこれを無視して、一方的に閉会したため、理事長解任の動きは封じられた)。
これまで、藤田理事長とともに文観税賛成と見られていた金閣寺、銀閣寺は古文協や仏教会の動きに対し、はっきりした態度決定の必要にせまられていたが、本山である相国寺の一山会議において、文観税反対の申し合わせがなされたため、金閣寺、銀閣寺は文観税反対の意思を表明し、これ以後仏教会の反対運動の戦列に加わったのである。
十月六日、京都ロイヤルホテルで京都市と仏教会の第二回公式会談が開かれた。仏教会は問題点として(1)「覚書」をどう考えるか、(2)赤字財政の補填ではないか、(3)市民憲章に反しないか、(4)観光関連業界などに影響はないか、(5)信教の自由を侵害しないか、の五点をあげた。
これに対し京都市は(1)「覚書」を尊重しているがゆえにこの話し合いを持っている、(2)税は文化財保護など将来に向けて目的財源として使い、赤字補填ではない、(3)市民憲章には反しない、(4)観光客からの直接売り上げは二千三百億円程度で商工業全体の三パーセントに過ぎず影響はない、(5)信教の自由を侵害するつもりはない、拝観には文化財鑑賞という側面もありそれらの人に課税する、などと主張した。これまで文観税は、赤字補填のためであると公表したことで、様々な批判を受けていた京都市は、前言を翻し「文化財保護のため」であるとして、目的税的性格をより鮮明にした。話し合いを物別れに終わり、その後仏教会は本能寺会館で会合を待ち、今後京都市との話し合いを凍結することに決めた。しかし十九日開かれた第十回対策委員会で、今川市長と立部仏教会会長のトップ会談が十八日夜密かに行われ、会談が平行線に終わったことが明らかにされたため、仏教会は文観税構想撤回を求める“最後通告”を京都市に突き付けることを決めた。そして十月一日、仏教会は弁護士や法学者ら二十八人で構成する文観税法律対策委員会を発足させ、委員長に元日弁連会長和島岩吉氏を選任、条例制定後の訴訟に対する準備をすすめ、南禅寺会館で開かれた初会合では「覚書」は単なる紳士協定ではなく法的拘束力があるとの意見の一致を見る(仏教会はこの間四回にわたり新聞紙上に意見広告を掲載し、文観税反対のポスターやビラなどを配り、市民、拝観者、壇信徒を対象に反対署名運動を展開した。また市議会では、自民党市議団に続いて社会党市議団が文観税賛成の方針を打出し、京都市は市政モニターによる世論調査を実施して、市民の六十パーセントがこの税に賛成であるという調査結果を発表した。さらに観光関連業界では旅館四団体が文観税に賛成を表明したのを初め各種団体が賛意の表明を行っている。)
京都市は仏教会への説得がうまく行かなかったことで、対象四十社寺に対して個別交渉を始めるという方針を打ち出した。そこで仏教会は、十月十七日協議会を開き、(1)市の切り崩しを排除するため結束を固め、行政上の締め付けがあれば仏教会として対応する、(2)文観税反対の市民集会を開く、(3)条例が可決されれば法廷闘争に持ち込む等を決議し、対象四十社寺のうち三十一ケ寺が決議文に署名した。
反対寺院との交渉が暗礁に乗り上げていた京都市は、条例の市議会提案を控え、仏教会に対し「覚書の精神を尊重し、双方の主張を一旦棚上げにして話し合いを再開したい」と申し入れてきたため、仏教会は、条例の市議会提案を引き伸ばすためもあってこれに応じ、十二月一日夜非公式に会合が持たれた。しかし「覚書」を尊重するということを条例構想の撤回ととらえた仏教会に対し、棚上げは一時的なものであり、条例の再提案も有り得るとする京都市の解釈とは食い違いを見せ、話し合いはすれちがいに終わった。その後自民党、社会党、民社党市議団も仏教会との交渉に乗り出し、十二月六日、九日と会談が持たれた。
市議団は(1)文化財を守るため一致協力してほしい、(2)「覚書」は市長個人が交わしたもので、議会の議決を経たものではないので市議会は拘束を受けない、したがって覚書は今となっては単なる紙切れにすぎない、(3)信教の自由を言うならば、なぜ十八年前に最後まで抵抗しなかったのか、(4)行政上、寄附金ではなく税での徴収が妥当と考える、と主張し、仏教会の反発をかい、この会談も平行線のまま終わった。
この間、仏教会は対策協議会を開き、京都市に条例撤回の意思がないことを確認して、法廷闘争への強い決意を含む闘争宣一言を採択した。
しかし水面下では、従来からの市との話し合いは続いており、十二月十三日にも非公式会談が持たれたが、依然話し合いは難行した。京都市は寺院の合意を取り付けた上での、文観税条例の十二月定例市議会提案は難かしい状況になり、十二月市議会を見送っても条例の四月実施に影響はないとして、一月市議会提案の腹を固めた。
市議会においては共産党(十九)一党だけがこの条例に反対しており、自民党(二十四)、社会党(十)が正式に賛成を表明し、公明党(十三)、民社党(四)も賛成に回るものと見られ、可決は確実な情勢にあった。

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