平成8年8月15日 発行冊子より
宗教法人法「改正」と税制
〜宗教法人の自主性を確立するために〜
京都仏教会編

「荒ぶる神」か「家畜化」ヘの道か
  −宗教法人法「改正」をめぐる世論の分析−

追手門学院大学人間学部教授 田中 滋

 宗教法人法の改正をめぐる問題や、自民党が検討している宗教弾圧法的な「宗教基本法」案に対しては、主に憲法学や宗教学の立場からの批判が盛んになされてきた。そして、それらは、現行憲法の精神と宗教法人法との原理・原則論的な関係についての視点からの批判を中心とするものとなっている。
 そこで、本稿では、社会学的な視点の下に、宗教法人法が「改正」されるに至った社会的背景の分析や、今回の宗教法人法「改正」そしてすでに検討されているという第二次「改正」が今後宗教界にもたらすであろう影響についての分析を試みる。
 社会的背景の分析においては、マスメディアというフィルターを通してしか社会を見ることが出来ない現代の我々が、そのフィルターによってたとえぱ「政教分離の原則」というものをどのように解釈しているのか、またそれらの解釈が「世論」という形を取って宗教法人法「改正」論議の中でどのような働きをしたのかを中心に考察を進めたい。
また、宗教界への影響については、近年産業界を中心として盛んに主張されている「規制緩和論」の流れにすら逆行する形で行なわれる宗教法人への今回の「規制強化」が、戦前のような社会ではなく現代の日本社会においてどのような影響を宗教界に対してもたらす可能性が強いのかについて考察する。


 「政教分離の原則」を脅かす二つの問題

 日本においては、戦後ようやく「信教の自由」が憲法によって保障される権利となった。そして、この「信教の自由」を確実なものにする条件として同じく憲法において重視されているのが「政教分離の原則」すなわち「『国家』と宗教の分離の原則」である。
 日本国民の多くは、現在のような「自由の国・日本」において個人の「信教の自由」が侵害されるなどといったことが起こり得るとは夢想だにしていない。しかし、その「信教の自由」を支える「政教分離の原則」に対しては、それを堀り崩しかねないいくつかの問題が戦後存在した。それらの問題は、大きく二つに分類することができる。一つは、「国家神道化」型の問題であり、もう一つは、「宗教法人批判(キャンペーン)型の問題である。

 「国家神道化」型問題
 「国家神道化」型問題は、戦前の「国家神道」体制への回帰の願望とその実現のための運動・行事と、逆にそれらに対する危惧とその危惧に基づく阻止運動との間で展開される、イデオロギー対立的な問題である。これに分類される問題としては、靖国神社法案問題、天皇家の神道祭祀(大嘗祭など)問題、地鎮祭・忠魂碑訴訟問題等が挙げられる。
 このタイプの問題に対しては、それがイデオロギー対立的であり、かつ直接的に「政教分離の原則」に対する侵害が内包されているがゆえに、人々の反応はより直接的かつ明快である。戦前の「国家神道」体制への回帰の動きに対して敏感で危惧を抱くいわゆる「革新」勢力や知識人は、国家神道体制への回帰志向をもつ「国家(政府)に対して異議を唱え、阻止運動を展開するという役割を五五年体制の下においては戦後一貫して果たしてきた。

 「宗教法人批判」型問題
 一方、「宗教法人批判」型問題は、「国家(政府)」ではなく「宗教法人」がその組織運営やその信者との関係のあり方
(信者獲得のための活動を含む)に関して批判されるという形をとり、しばしぱ「宗教法人課税問題(特に、優遇税制問題)」と大なり小なり結び付けられる問題である。たとえば、「霊感・霊視商法」の問題、巨大新興宗教団体による巨額の蓄財問題、宗教法人を「隠れ蓑」とする営利追求的な宗教法人組織の問題等である。
 このタイプの問題は、そのほとんどがマスコミによる大々的な「宗教法人批判キャンペーン」という形をとる。それは、消費税導入を核とする税制改革論議の際に、宗教法人に対する「優遇税制批判」がマスコミにおいてどれほど激しいものであったかを想起すれぱよいであろう。
 この税制改革論議の中での宗教法人優遇税制批判は、不当にも「税の直間比率の是正」の「根拠」として持ち出された。
宗教法人はいわぱ「出汁(ダシ)にされたのである。消費税の導入があたかも税制における「不公平」(−その典型が「宗教法人の優遇税制」であるというわけである)のすべてを解消させるかのような幻想を人々(国民)に抱かせ、その導入を容易にすることに一役買わさせられたわけである。
 このように、税制改革論義の中での宗教法人優遇税制批判は、宗教法人を「出汁」にしたものであって、最終的な攻撃目標にしていたわけではないが、宗教法人の存立に関わる重要なインパクトをももっていた。
すなわち、「国家(政府)」による「宗教法人」の統制、つまり「政教分離の原則(「国家」と宗教の分離の原則)」の侵害を、正当化し容易にするという働きである。
「堕落した宗教法人」に対する監督・統制を「国家(政府)」が強化するのは当たり前であるという世論・空気を作り出すという働きである。

 「国家神道化」型問題と「宗教法人批判」型問題
     −社会的重要性の評価についての比較−

 ところで、「国家神道化」型問題と「宗教法人批判」型問題は、双方共に「政教分離の原則」に関わり、さらには「信教の自由」の侵害に繋がりかねない重要な問題であるが、これらニつの問題の社会的な重要性に対する評価は大きく分かれる。
 前者の問題は、批判・反対するにしろ、あるいは逆に賛成・評価するにしろ、知識人であるならばその態度を鮮明にすべき重要な問題である−と見做されている。言い換えれば、日本の知識人にとっての「踏み絵」となる程に重要な問題であると見做されている。
 これに対して、後者の問題は、それが宗教法人の堕落や不正といったテーマを主題とする問題であるが故に、社会的な重要性の低いジャーナリスティックな問題と見做されている。
 こうした考え方の背景には、宗教には、「二つの宗教」、すなわち「敬意を払い擁護するに価する宗教」と「軽蔑すべき宗教」あるいは「いかがわしい宗教」がある−といった差別的意識が、特に知識人の間に、存在することを指摘することができる。 「いかがわしい宗教」の堕落や不正は当然であり、重要な問題ではない−という発想である。

 「国家神道化」型問題と「宗教法人批判」型問題
     −「政教分離の原則」に対する侵害可能性の比較−

 しかし、社会的な重要性に対する評価と、それぞれのタイプの問題がもつ「政教分離の原則」に対する実質的な侵害可能性の度合いとは、別次元の問題である。
 「国家神道化」型問題は、それがより直接的に「政教分離の原則」や「信教の自由」に対する侵害を内包しているが故に、その侵害に対する批判も激しくかつその批判の理論も精緻なものとなっている。つまり、直接的に「国家神道化」を目指す動きは、多くの障害に出会うということである。
 たとえば、地鎮祭訴訟問題である。地鎮祭訴訟は、地方自治体が地鎮祭の費用に公費を支出したことに対して、それが憲法の「政教分離の原則」に違反するとして、地方自治体が訴えられた訴訟である。
 この訴訟で注目しなければならないのは、「国家」の側がそこで展開した論理である。それは、地鎮祭は一種の「習俗」つまり「昔からの習わし」であり、「宗教行事」ではない、だから公費の支出は許されるというものである。
 しかし、地鎮祭は、大蔵省が非課税の行事として認定している宗教的儀礼であり、そういった意味からしても立派な「宗教行事(活動)である。地鎮祭が「習俗」であり「宗教行事」でないというのは、やはり「詭弁」である。
 より直接的に「政教分離の原則」を侵害する可能性をもつ「国家神道体制」への回帰を目指す動きは、このような「詭弁」によってのみようやく批判をかわすことができるのである。直接的に「国家神道体制」に回帰しようとする戦略は、骨の折れる厄介なものであるというわけである。
 「国家神道化」型問題は、国家神道体制への回帰を目指す主体の、「政教分離の原則」を謂わば「中央突破」しようとする戦略によって特徴づけられる問題なのである。しかし、この戦略は、その意図の明白さ故に、人々の耳目を集め、また批判も激しく、少しずつしか前進することのできない戦略であったということになる。
 これに対して、「宗教法人批判」型問題においては、それが宗教法人の堕落や不正といったテーマを主題とする社会的に重要性の低いジャーナリスティックな問題と見做されているが故に、逆に、人々は容易にマスコミが描いた「堕落した宗教法人像」をそのままの形で受け入れることになる(一人間は自分が重要であると考えない問題についてはあまり真剣に思考しないものである)。
 すなわち、「宗教法人批判」型問題においては、「国家神道化」型問題と比べれば、より間接的で明示化されない形で「政教分離の原則」に対する侵害が正当化され(「堕落し不正を行なう宗教法人は統制すべきである」)、それ故に、その侵害を正当化する論理は人々の潜在意識的なレベルにおいて固着化していくのである。
 「宗教法人批判」型問題においては、マスコミによる度重なるこのような宗教法人批判キャンペーンによって地ならしがされ、革新勢力あるいは知識人からのさらには宗教者自身からの抵抗もほとんどないままに、「政教分離の原則」に対する侵害の可能性が高まっていくのである。こうして、「国家神道体制」への回帰を目指す動きに対してはそれを手厳しく批判しまた抵抗する知識人までもが、「宗教法人批判」型問題のいわば罠にはまり、宗教法人批判に同調し、「政教分離の原則」の侵害に一役買うことにもなるのである。残念なことではあるが、こうした事態の背後に、先に述べたような知識人の「守るに価する宗教」と「そうでない宗教」とを差別する意識があることは明白である。

 オウム真理教問題の位置
 オウム真理教については、あのサリン事件以降、まさに多種多様な言説がなされているが、ここでは、オウム真理教問題が、「政教分離の原則」をめぐる問題とどのような関係にあるのかについて、以上に述べた、「国家神道化」型問題と「宗教法人批判」型問題との「比較」の観点から論じておきたい。
 結論から言うと、オウム真理教問題は、「国家神道化」型問題と「宗教法人批判」型問題がそれぞれにもっている「政教分離の原則」に対する侵害の可能性を二つとも持っており、それ故に「政教分離の原則」を揺るがす大きな力を持っていたということである。
 後者の、理解が容易な「宗教法人批判」型問題としてのオウム真理教問題をまず見てみよう。ジャーナリズムによる批判(宗教法人批判)の中心的論点は、ヒユーマニスティックな観点からの教団内における信者の「人権の軽視」の問題である。オウム真理教の信者は、カリスマ的教祖の下で、マインド・コントロールされ、正常な人格を失い、みずからは狂信的な修業に走り、またサリン事件を引き起こすような殺人兵器ともなり、一方では、布施を信者やその関係者に犯罪的な形で強要していった−というものである。このような状態は、現代社会において最も重要な価値の一つである「人権」を侵害するものである。だから、このような狂信的な宗教法人が二度と生まれて来ないように、現在の「手緩い宗教法人法」を改正すべきである−という論理の展開である。ここで、「政教分離の原則」は背景に退き、宗教法人への規制強化が正当化されるのである。
 宗教法人法は、「手ぬるい」のではなく、「政教分離の原則」の下に、「国家」の「宗教」に対する「ノーコントロール、ノーサポート」を主旨として制定されており、宗教法人法を「手厳しい法律」にするというのは筋違いの要請である。刑法上の犯罪を犯す宗教法人には刑法が適用されるべきなのであるが、短絡的に宗教法人法の改正が求められるのである。
 なお、ここで注目しておくべきことは、ヒユーマニスティックな観点からオウム真理教問題を「信者」の「人権」問題として捉えることが、「政教分離の原則」を掘り崩し、さらには「信教の自由」というより根源的な「人権」を侵害する基盤を皮肉にも形作ってしまっている−ということである。「ヒユーマニズムが信仰の自由の侵害を帰結する」という−皮肉な組み合わせは、オウム真理教問題に限らず多少は見られたことである(たとえば、寄付金や布施の多寡をめぐる信者間での過度な競争に対する批判を焦点とする宗教批判)が、オウム真理教問題においては、それがあまりにも極端な形で生じてしまったのである。
 前者の、「国家神道化」型問題とオウム真理教問題との関係はどうであろうか。この両者は、一見したところ無関係のようにみえる。しかし、両者は、少し複雑な形ではあるが、明らかに結ぴ付いている。明治憲法の「信教の自由」についての規定を見てみよう。
 明治憲法では、その第二八条に「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リ二於イテ信教ノ自由ヲ有ス」と書かれている。すなわち、「明治憲法下の日本社会」の「安寧秩序」を「妨げない」という条件を充たすかぎりにおいて、「宗教」はその存在を「国家」によって認められたのである。言い換えれば、「宗教」は、「信教の自由」の観点ではなく、「社会防衛」の観点からその是正が評価され、その評価を行なう主体は「国家」であったわけである。すなわち、明治憲法下においては、国家が宗教の正邪の判定を「社会防衛」の観点(安寧秩序を妨げる宗教かどうか、また臣民としての義務に背く宗教かどうか)から行う権利をもっていたわけである。
 このような状態は、明治憲法下の日本において「国家」と「宗教」とが密接不可分に結び付いていたことを考えれば、当然のこととも言える。すなわち、国家の威信を特定の宗教(国家神道)が支えているときに、他の宗教が国民の心を掴むことは国家の威信の低下に直結するからである。
 たしかに、「国家神道体制の下にある社会の安寧秩序を妨げるかどうかという基準に基づいて、国家が宗教の正邪を判定する」などという明治憲法下での発想は、まさに戦前の暗い時代の遺物に他ならず、現在の「自由な社会」に生きている人々の中でこれを受け入れる人はいないであろう。
 しかし、この発想を次のようにアレンジしてみるとどうであろうか。すなわち、一つには、宗教の正邪を判定するのが「国家」であると特定するのではなく、誰なのかを曖昧にし、二つには、「国家神道体制の下にある社会」という特定の「社会」ではなく、「社会一般」の「安全(安寧秩序)が問題なのだと読み替えるならば、どうであろうか。このようにアレンジするならば、この発想は、サリンによる無差別殺人事件を起こしたオウム真理教に対して現代のわれわれが判断を下した時の発想、すなわち「社会の安全にとって危険な「オウム真理教」は徹底して排除しろ」という発想と、同型の発想であると言えるのではなかろうか。オウム真理教に対する破防法(破壊活動防止法)の適用は、この結論のまさに延長線上にあるのだ。
 そして、このような発想の下において、宗教法人法の「宗教法人規制法」化という形で、「社会の安全にとって危険な『宗教一般』を排除する」ことのできる法律ができてしまうと、「オウム真理教の場合は当然であったが、この宗教を排除する理由はない」と世論が考えるような「宗教」までもが国家や特定の政党の恣意によって排除される可能性が開かれてしまうことになるのである。
 このように考えれば、オウム真理教問題は、戦前の国家神道体制への回帰を志向する発想と同型の発想へとわれわれをいつのまにか導いていくことが理解できよう。すなわち、オウム真理教問題は、「国家神道化」型問題のサプタイプ、それも巧妙な「社会防衛論」的な論理構成でわれわれをいつのまにか「政教分離の原則」の侵害へと導く問題であるということが理解できるであろう。
 ところで、「政教分離の原則」の読み方として、これを「『国家』と宗教の分離」として読むのではなく、「『政治一般』と宗教の分離」として読むべきだ−との主張が、最近しばしばなされている。すなわち、「宗教は政治に口を出したり、特定の政党を支持したりするべきではない」。なぜなら、宗教が政治に関与しさらには支配するようなことにでもなれば、「社会」全体が危機に陥るからであり、「社会防衛」のためにも、宗教は政治に関与すべきでないというわけである。
 「政教分離の原則」のこの最近の「社会防衛論」的な読み方は、まさにオウム真理教問題を通してわれわれの思考の中に入り込んできた発想を、創価学会を念頭に置いて、さらに一般化したものに他ならないのである。
  オウム真理教問題は、以上に述べたような意味において、「国家神道化」型問題と「宗教法人批判」型問題がそれぞれにもっている「政教分離の原則」に対する侵害の可能性を二つともしかもより巧妙なあるいは皮肉な形で持っており、それ故に「政教分離の原則」を揺るがす大きな力を持っていたのである。
 オウム真理教問題が、このように巧妙なあるいは皮肉な形で「政教分離の原則」を揺るがす大きな力を持っていたことは、一九九四年九月一九日の「『宗教と社会』のあるべき姿−宗教法人法を考える−」と題する朝日新聞の社説に如実に現れていたということができよう。この朝日新聞の社説を、堀口慈恵氏は、「宗教法人法改悪へ大衆操作を買って出る」ような「詭弁」に充ちたものであるとして批判しておられるが、むしろオウム真理教問題のもつこうした巧妙な罠に、「国家神道化」型問題にこれまでとらわれてきた社説の執筆者そして朝日新聞社が陥ったと考えることもできるのではなかろうか。

 宗教法人法「改正」の背景としての世論
 以上の分析を元に、昨年(一九九五年)の宗教法人法「改正」の背景を、「改正」された宗教法人法に如何に対処すべきかの方策を考える上で参考となる範囲内で、考えておこう。
 よく言われているように、宗教法人法「改正」法案は、連立与党(自社さきがけ)が一九九四年の参議院選挙において痛感させられた創価学会の驚異的な動員能力を減退させることを「動機」とし、一九九五年のオウム真理教によるサリン事件を直接的な「引き金」として成立した。
 前者の「動機」がなければ、宗教法人法の「改正」もなかったであろうという意味において、「創価学会パッシング」という連立与党サイドの動機は重要である。しかし、前節の分析で明らかにしたように、オウム真理教問題が二重の意味で「政教分離の原則」を揺るがす特別に大きな力を持っており、それが宗教法人法「改正」の世論を喚起したことの方がより重要であろう。
 こうした世論を担っている普通の人々は、一体「宗教法人法」というものをどのように理解しているのであろうか。駒沢大学の洗健教授は、国家からの「ノーサポート、ノーコントロール」を旨とするのが宗教法人法であると的確に指摘しているが、世論を担う普通の人々の意識においては、度重なる宗教法人批判キャンペーンによって、〈宗教法人法=手ぬるい宗教法人「規制(コントロール)法〉と見做されていると言えよう。だから、オウム真理教問題を契機として、人々が宗教法人への規制(コントロール)強化を求めたとしてもなんら不思議はないのである。
 「改正」後の宗教法人法の悪用を警戒し、またもしも成立するようなことがあれば宗教弾圧法として機能するはずの「宗教基本法」をめぐる政治的動向に注目する人は、誰であれ、この世論を担う普通の人々の意識を充分に知らねばならない裏返して言えば、宗教法人法の改悪や「宗教基本法」の成立を画策する勢力に対して憲法解釈の正統性をめぐって戦いを挑むという「理知」的な戦略−すなわち、必ずしも世論を直接的な対象とはしない戦略−にはおのずと限界があるということである。


 宗教法人法「改正」の影響予測
     −宗教法人の「家畜化(domestification)への道−

 ここで、少々大胆ではあるが、宗教法人法「改正」後の予測を行なってみたい。
 まず、国家が宗教一般を弾圧するといったことができるのであろうか。
たとえば、国家神道体制への回帰の下での弾圧といったことが想起されるが、これは、まったくと言っていいほど不可能であろう。現在のように日本社会が国際社会の中に緊密に組み込まれている時代に、そのようなことをすれば、日本は国際社会の信用を即座に失い、国家として経済的に立ちゆかなくなるであろう。
 では、連立与党は、「改正」された宗教法人法を手段として、特定の宗教法人に対する圧迫活動(たとえば、「創価学会パッシング)を行なうことができるのであろうか。これは、最も危惧されているところでもあるが、あまり実効性を持ちうるとは思われない。露骨な圧迫活動はそれに対する正当性を確保することが困難であり、そのような暴挙を行なう政党からは世論が離反し、その圧迫活動を成就することは出来ないであろう。
 それでは、なにも変わらないのかと言えば、そうではなかろう。一つの可能性としで言えることは、唐突に見えるが、様々な宗教法人によっていくつもの財団法人が設立されていくであろうということである。なぜ、財団法人なのか。財団法人は、それぞれの宗教法人が担う「公益性」の証しとしてその設立が文部省からの行政指導などによって求められ、同時に、それは、中央省庁(特に、文部省や厚生省)からの天下り官僚の受け皿としての機能をも持たされるという次第である。
 すなわち、産業界においては常識化している「天下り」が、「宗教界」においても盛んとなるという予測である。それぞれの宗教法人は、「改正」された宗教法人法によって強化されなおかつかなり恣意的な形で刻々と変化していく「規制」についての情報を得るために、またそうした規制の網をくぐるために、天下り官僚をみずからが設立した財団法人に進んで受け入れるという構図である。宗教界も、他の業界と同じようなありふれた一つの「業界」へと変化していくというわけである。
 本稿の最初の部分で産業界における近年の「規制緩和論」について言及したが、実は産業界においてもこの規制緩和は遅々として進んでいない。なぜかと言えば、省庁による特定の分野に対する「規制」には、それと表裏をなすものとして、その分野の企業や団体に対する省庁による「保護」が不即不離に結び付いているからである。日本の省庁は、「規制」という「ムチ」には、かならず「保護」という「アメ」を用意するのを常套手段としている。
 もしも、宗教法人法の規制法化が進み、様々な宗教法人に厳しい「規制」の網が掛られるだけであるならば、個々の宗教法人もまた宗教界全体も大いに反発するであろう。「法難」、「受難」の時である、と言うわけである。しかし、もし、そこに、「アメ」が介在してくるならばどうであろうか。たとえば、現在の官庁依存のマスコミの実情を見ると可能性の高いことであるが、マスコミによる宗教法人批判の鎮静化が省庁の力によってなされるとしたらどうであろう。宗教法人は、こうした「保護」と引き換えに、むしろ喜んでさえ「規制」を受け入れていくのではなかろうか。
 これこそが、本稿のタイトルの中に掲げた、宗教法人の「家畜化(domestification)」現象である。
 ところで、宗教法人の「公益性」を、一般の公益法人がそれぞれの分野において持つような公益性とは別の次元に求める考え方がある。すなわち、宗教法人に託された「公益」とは、「すべての宗教がそれぞれ個性的に開花する」ことによって、「多元的社会が実現する」ことである−という考え方である(小林節『宗教は政治参加の権利を持つ』潮出版社、一九九七年、参照)。この考え方に基づけば、たとえば、宗教法人の公益性は、医療や福祉あるいは教育等といった特定の領域で慈善事業を行ない、そのための財団法人を設立することにある−といったことにはならないはずである。
 宗教法人の公益性の一つとして「多元的社会の実現」があるにもかかわらず、宗教法人の家畜化が進行していった場合には、日本の社会は一体どうなっていくのであろうか。
 宗教法人の家畜化の果てには、より一層多元性を失った息苦しい社会が残されるということになるであろう。それぞれの宗教法人は、たとえば選挙の際には、まさに他の業界がそうさせられているように、票を割り当てられまた動員を駆けられるだけの存在へと成り下がってしまう。宗教は、戦前のように、国家主義的なイデオロギーに縛られるのではないが、政党と官僚との利害関係の網の目の中に縛られることになるのである。そして、家畜化してしまえば、バッシングの必要も弾圧の必要もなくなるというわけである。


 「荒ぶる神」への対抗は「荒ぶる神」の力で

 現在、連立与党の中心をなす自民党は、もしも成立するようなことがあれば明らかに宗教弾圧法として機能するはずの「宗教基本法」を検討している。 自民党は、今や「荒ぶる神」のごとき相貌を呈している。
 党利党略的になされる「政教分離の原則」についての乱暴な解釈に対しては、正統な憲法解釈を投げ返すことが非常に重要である。しかし、一方では、宗教者自身が「荒ぶる神」となって対抗してゆくことも必要である。
 「古都税問題」において、京都仏教会は、一方では、裁判闘争を行なうのと同時に、他方では、まさに「荒ぶる神」として京都市当局と戦い、「古都税条例」を廃止に追い込み、同種の条例が再浮上する可能性のない状態を生み出している(−因みに、京都仏教会が対峙した「古都税問題」は、マスコミによる宗教法人批判キャンペーンに安易に便乗した京都市行政当局が引き起こした、「宗教法人批判」型問題の一つである)。
 こうした行動に対して、京都市民は眉を顰め、また「宗教は政治に口を出すな」と批判されもしたが、京都仏教会は、その後の「京都ホテル高層化」の問題においても、宗教者として「譲れない一線」のあることを明示し続け、現在、宗教法人法問題の渦中に身を置くこととなっているのである。
 宗教者がその社会を代表する「教養人」としてプレゼンテーション(自己提示・自己主張)をしておればよかった時代はもはや終わった−と宗教者は考えるべきである。むしろ「荒ぶる神」としての活動とそれに基づく正々堂々としたプレゼンテーションが、政党や行政よりもある意味において「手強い世論」を味方に付ける有力な契機となるはずである。
 「荒ぶる神」としての行動と正々堂々としたプレゼンテーションは、「国家神道化」型問題に対しては敏感であるが「宗教法人批判」型問題に対しては無頓着であるような知識人の意識を覚醒させ、延いては、宗教法人批判キャンペーンによって強く意識を規定されている人々の意識をも変革していくことができるはずである。

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